2005-01-01から1年間の記事一覧

再会…。

ながーい道のりも、残すところはあと2週間。分析の甘さ、自分の能力の限界、へんてこな文章に凹まされている間に、20代と「あばよ」してしまった。いい、今はこれでいい…。 昼食の後は、少しでもいいので外出することにしている。これを省略すると、夕方…

福本イズムと知識人批判

元気です。無理をせず、しっかり進めています。分析編を改めて読み直すと、ぎこちない文章に腹が立つ(笑)。執筆時における確信の度合が異なるので「当たり前か」と思いながら書き直し、残るは結論と序論。とにかく前進あるのみ。頑張ります。 「分離・結合…

「広告」の「作動」とは何か

ここしばらく集中力が落ちたように思い、突然にルーマンの『マスメディアのリアリティ』(林香里訳、木鐸社、2005年)を読む。これで集中力が上昇するとは正直思えないが、歴史資料ばかりを読んでいて、ネタづくしになった頭をすこしほぐすくらいにはなるだ…

1950年代/1960年代

「Qちゃん」を観て、やっぱりテレビは楽しいなと思った。「東京国際マラソン」は、単なる番組名でしかなかったみたいで、視聴して随分と彼女については詳しくなった。「頑張れ30代!」というコメントはとても印象的で、「ニート」への呼びかけのようにも、…

「オリエンタリズム」を笑う日

留学生と食事をした時のこと。日本の近世と西洋の近代の比較思想史に関心のある彼は、研究の傍らで陶芸にも熱心で、柳宗悦や浜田庄司を尊敬しているという。彼のように陶芸にはまる留学生は今までに何人か会ってきているので、「どうしてなのかな?」と素朴…

政治思想史と歴史社会学

洗濯機が壊れた。「バッチーン」と大きな音を立ててから、近所の犬は吠えていた。何かしらの金属部品が切れたのか、その後は信じられない程の騒音を出し続け、脱水機能は完全にアウト。運悪く、布団を洗っていたので、水をたっぷり吸ったそれをハンドパワー…

伊奈信男と「現実」

カレーを一生懸命に作った井上和香が御飯を炊いていなかったというCMをみては、「ないない」と突っ込んでいたのだが、そういう自分が今晩は炊飯器のスイッチを入れ忘れていた。風邪薬の副作用はこういうところにくるものだろうか、とにかくちゃんとここで回…

私と世界とデザインと。

「書いたな」と思って読み返すと、その読みにくさに愕然とする時がある。大抵の場合、その理由は記述の冒頭で説明変数が整理されていないことにある。説明変数は増やしてならない。それが昨年学んだことである。「思考は深く、記述はシンプルに」、これがな…

「近代の超克」と不思議な確信

僕は漢字を読むのが苦手だ。今でもトンデモな読み方を堂々としていることが少なくない。「破綻」を「はじょう」と読んでいたこともある(「はたん」という言葉を知りながらも!)。しかも、これはATOKで丁寧に変換までしてくれる(「誤読」という合図はでる…

欲望の個人主義:ネタとメタの共存

若者論のお約束として、ネタとメタの共存関係の指摘がある。「アイロニカルな没入」(大澤真幸さん)、「ベタな感動とアイロニカルな感性の共存」(北田暁大さん)などもそうした例だろう。伊奈正人さんの『若者文化のフィールドワーク』(頸草書房、1995年…

公開シンポジウム「ニート−何が問題なのか」

予約をしたにも関わらず、執筆のリズムを優先して行くことができなかった「ニート−何が問題なのか」。本田由紀さん(id:yukihonda:20051001)のメモを拝見。 公開シンポジウム「ニート−何が問題なのか」 2005.10.1 於東京大学 ニートをめぐる様々な「問題」 …

<感性>の誕生:反−構図としてのレイアウト

今夏は「ちゃんと」遠出をした。7月には山中湖、8月には軽井沢、9月には箱根。集中することと休息することのバランスの重要さを改めて知った。いい秋、いい冬にしよう。 初投稿の論文がようやく納品。執筆から出版までの流れを自分のこととして理解するこ…

「正しいデザイン」という欲望

ひらめきとは先輩方の思考の中に埋め込まれているものである。それは、僕の思考を閉じこめると同時に切り開く。三木清の「構想力」や中井正一の「集団美」はそういう意味で発見だったし、柏木博さんの『近代日本の産業デザイン思想』(晶文社、1979年)の「…

「生き方モデル」としてのクリエイター

最近は「生き方モデル」という言葉が気に入っている。「どんな研究をされているのですか?」と聞かれた時に、「「クリエイター」というアイデンティティの歴史です」というよりは、「クリエイターという「生き方モデル」の変遷を調べています」というほうが…

世界が「斜め」になった時

先日の初講演は無事に終了。パワポで発表する言説分析に(!)、耳を傾けてくれたみなさまどうもありがとうございました。美術史の方々を前にして「レイアウト」=「反−構図」という直球を投げてドキドキしていたのですが、建築史の方々までも積極的に受け止…

「革命」の記憶

先日に志位さんがテレビで「共産党の名前は変えません、これはロマンなのです」と言っていた。「いまだに革命なのか?」とこっそり突っ込んでいたのだが、思い返せば自分にも「革命」を迫られた時があったことを思いだした。 前の職場の建物(3階建てのコン…

「注意する/注意される主体」としての近代

年に何回か「出逢ってしまいましたかぁ!」と思う本がある。そういう本に限って、とんでもなく分厚く、とんでもなく高い。しかし買わずにはいられない、いつ読み終わるのはわからないけれども。クレーリーの『知覚の宙づり:注意・スペクタクル・近代文化』…

内田樹「生者は儀礼決められぬ」『朝日新聞』(2005年8月30日)

内田さん曰く、首相の「靖国参拝」問題において、賛成派も反対派も「「死者は正しく祀られなければ、生者に災いをなす」という点については合意が成り立っている」という。確かに「参拝」は生存する者のためにも語られている面が強いし、悲しいことに「死者…

言いたいことも言えずに

資料閲覧で多摩美(八王子)へ。文献調査はその多くが図書館ネットワーク検索に支えられているので、どこの図書館にいっても司書さんには感謝感謝。昨年夏に『アイデア』『ブレーン』(共に誠文堂新光社)をすべてを読んだ時には時間をかけすぎたので、今年…

『芸術の社会的生産』ならすぐに買った…。

寝違えた。外出はキャンセルしたが、まともに首を動かすことも出来ずトホホな一日に。これに効くのかどうかもわからないが、とりあえずサロンパス。 ところで、僕は洋書に対する「眼」が十分に鍛えられていない。原著を買うことは稀だし、訳書のタイトルでピ…

自分の発言には責任を持つべきである

暫く前に「自分の発言には責任を持つべきである」とはどういうことなのかと聞かれ、それ以来「責任」について少しでもまとめられないものかと考えていた。 なぜ発言の「責任」なのかと言えば、発言の「自由」が与えられているからである。様々な発想とあらゆ…

*[critique]「広告化する学習」試論暴論

広告とは「メディア横断的な存在」である。従って、広告は一つのメディアではない。広告は一つの産業として成立しているために、一つのメディアとして成立しているかのように思うかもしれない。しかし、厳密には違う(と言いたい)。広告とは、新聞・放送・…

何のための「戦後」?

「終戦60年」番組をいくつか観た。なんともいえない気持ちになって、祖母から当時の話を聞いた。「空襲で焼け出された時に戦争を本当に知った」と言う。だから「他の国で戦争が起きても、焼け出されている人を見ると他人事には思えない」と言う。成田龍一さ…

記憶が呼び出す言語

かつては英語で夢を見るようなこともあったのだが、もはやそれもなくなり、随分と時間が経った。複数の言語で思考するのは楽しいし、選択肢は多いほうが面白いに違いない。問題はこの環境をどうやって作っていくのかで、所謂「ゲストハウス」に住み込むとい…

「20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?」

「20世紀日本建築・美術の名品はどこにある?」(http://artstudy.exblog.jp/)の第4回にてお話をさせて頂くことになりました。題目は「戦時下におけるプロパガンディストの論理:報道技術研究会と今泉武治」でして、1940年代前半の広告制作者を中心的に取り…

中井正一の「集団的主体性」

1930年代の思想が、じわじわと染みてきた。正直なところ、広告制作者の歴史において「中井正一」をどのように扱えるのかは困っていたのだが、ここになって彼の「集団的主体性」をめぐる議論はそれなりに居場所を見つけようとしている。「技術性」や「模倣性…

Anna McCARTHY, AMBIENT TELEVISION, Duke University Press, 2001

メディアの空間論的な歴史は面白い。「雑誌はどこに置かれてきたのか」、「ポスターはどこに貼られてきたのか」などを写真で集めているが、この「テレビはどこに置かれてきたのか」の歴史もなかなか面白い。 “ディスプレイ的なもの”に潜入したい人たちの欲望…

森永博志『ドロップアウトのえらいひと』東京書籍、1995年

1980年代末の週刊『プレイボーイ』の連載をまとめたもの。クリエイターとしての「私」が語られる時には、当然のように「反−学問」が主張されることが少なくないけれども、この不思議な言説的関係はどのように正当化されてきたのだろう?おそらく当時において…

「マスメディア」を語る手つき

ある国立大学で先輩と一緒に担当していた「情報と社会」が終了。科目「情報」の教員免許取得を目指す学生を対象に、人文的な「メディア論」を軸にマスメディア・デジタルメディア・モバイルメディアの講義とワークショップを行い、最終回はレポートとして「…

*[critique]終わりなき「教育」、とりあえず「学習」?

「教育が問題だ!」とは、誰でもいえる。みんながそれを経験してきているからだ。「教育を改善すべきだ!」も、誰でもいえる。みんながみんな先生になる必要はないからだ。「教育」をめぐる言語空間は、どうしようもなくぎこちない。がゆえか、「教育」とい…