世界が「斜め」になった時

 先日の初講演は無事に終了。パワポで発表する言説分析に(!)、耳を傾けてくれたみなさまどうもありがとうございました。美術史の方々を前にして「レイアウト」=「反−構図」という直球を投げてドキドキしていたのですが、建築史の方々までも積極的に受け止めて下さり、議論は盛り上がり、大変勉強となりました。文献的な発表が眠けを誘ってしまわないよう議論を図式化したので、反応もよろしく、プロパガディストの論理が「反−構図」であったことは違和感なくお持ち帰り頂いたみたいです。
 
 報道技術研究会と今泉武治は、一つには広告史として、もう一つには思想史として重要だと僕は考えています。しかし、後者の説明に時間を殆ど使えず、「なんで今泉武治と三木清なのか」ということを十分に説明できなかったことに反省しています。「思想」→「広告」といった構図ならともかく、社会のこととして「思想」と「広告」を同じテーブルに並べて語るのは難しいです。パネリストの暮沢剛巳さんのご指摘の通り、今泉の「感性」と三木の「構想力」とは綺麗に重なってはいません。実践的思考の今泉が三木の抽象的思考をテキストレベルにおいてなぞってしまっている点が重要なのだと思います。
 
 また「レイアウト」の話は、単なる技術論ではないところで、領域を越えて盛り上がることもわかりました。写真、建築、広告、映画、演劇などを横断して、「主題としての世界」から「素材としての世界」へと移行したのが1920年代なのでしょう。コーディネータの五十嵐太郎さんから「世界が斜めになった時」という問いの立て方があるのではないかと、発表者の井上章一さんから「「武ちゃんのレクチャーが始まった」という話は大事だよね」、「同じ枠組みでポピュラー音楽の研究もできそうだね」と助言を頂き、感謝感謝です。
 
 講演の概要については、後日レポートがウェブ(http://artstudy.exblog.jp/)で公開されます。また、これに関わるものとして、9月15日発売の季刊『d/sign』(no.11、太田出版、2005年)に、「<感性>の誕生:「反−構図」としてのレイアウト」という論文(約21000字)が掲載されます。関心を持って頂いた方は、そちらを購入して読んで頂けると嬉しいです。初掲載でかなり凸凹しておりますので、なにかありましたら遠慮なく指摘して頂けると助かります。

 分析編にどっぷり浸かって微視的になっていた眼を、見田宗介現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)、青木保『「日本文化論」の変容:戦後日本の文化とアイデンティティー』(中公文庫、1999年)でほぐした。「理想」の時代→「夢」の時代→「虚構」の時代にしろ、「否定的特殊性」の認識→「歴史的相対性」の認識→「肯定的特殊性」の認識にしろ、実践を見る眼をもったまま思想的枠組みを浮上させられると、楽しく勘違いできるようになると思います。「楽しく」です。