ワークショップ時代の統治と社会記述:現代史の社会学的記述
関東社会学会研究委員(テーマB)より、2021年3月21日(日)の研究例会の告知です。
テーマ:「ワークショップ時代の統治と社会記述:現代史の社会学的記述」
日時: 2021年3月21日(日) 14:00~17:00
場所:オンライン開催(ZOOM)
報告者:
林凌(東京大学大学院)「現代社会を消費社会として記述するために――統治術としての消費者主権/消費者志向」
元森絵里子(明治学院大学)「「子ども/大人」の統治・社会の記述――脱学校・まちづくりから教育保障・専門職ネットワークへの言説変容のなかで」
ファシリテーター: 加島卓(東海大学)、牧野智和(大妻女子大学)
http://kantohsociologicalsociety.jp/meeting/information.html#section_2
例会に参加を希望される方は、https://forms.gle/djWhBbHDZMEhPnRE7 よりお申込みください(2021年3月15日締め切り、でも若干遅れても大丈夫です…)。
2期共通テーマ「ワークショップ時代の統治と社会記述」とは
本テーマ部会では、現代社会の記述の困難について議論していこうとしています。かつて、国家権力―住民自治、専門家支配―市民参画、教育―遊び、労働―余暇のように、近代的な大文字の諸価値に新しい価値を対置するという対抗図式が各分野で用いられ、社会学者もそれに掉さしてきました。逆にある時期からは、住民自治や市民参画の理想を掲げることが、コストカットと自己責任を旨とする新自由主義の統治を下支えしてしまう可能性を反省的に指摘することが、社会学者の役割のようになったりもしました。
しかし、そうこうしているうちに、「自治」や「参画」や「選択」の理想は、対抗的なトリックではなく、新自由主義的な自治体政策(統治のモード)のなかに組み込まれて久しくなりました。「〇〇化社会」式のグランドセオリーも、「新自由主義」だという批判も、それが私たちの日常に根付き、そのなかで切実な実践が行われている現状に対し、空を切ってしまう感があります。タイトルになっている「ワークショップ時代」とは、このような時代を大まかにイメージしています。コンサルタントやマネジメント系の論者の記述のほうが力を持っているかにも見える「ワークショップ時代」に、社会学者はどう関わり、それをどう記述したらいいのか、分野横断的に議論をしてみたいと思います。
(より詳細な説明は、前年度例会の趣旨文参照→ https://blog.goo.ne.jp/e-com77/e/80ddb41cd1d4e23b1225598a951f6316)
「ワークショップ時代」というやや唐突なタイトルは、複雑な現状を捉えるために仮置きした感受概念です。様々な領域において、行政や専門家だけでは対応が難しくなっているという感覚が共有され、そうした現状に対して地域住民、市民ボランティアを意志決定や実践に巻き込んでいくことが期待されるようになっています。各領域の専門家にも、そのような場を設定し円滑に運営するためのファシリテーターやコンサルタントとしてのふるまいが要請されるようになっています。このような「パートナーシップ(協働)」や「ニュー・パブリック・マネジメント」などと呼ばれる趨勢を、単純に「下」からの新しい運動だと称揚するのはおろか、そこに「上」からの統治が及んでいると批判することでも見えてこない、誰が何をどのように主導しているのかも特定し難い複雑な現実があるように思われます。この時代の特徴を、より具体的に共有していきたいと思います。行政もコンサルタントも地域住民も、企業も、研究者も、一アクターとして知を持ち寄り、社会の様々な意志決定を行うようにふるまうことが求められる現代の姿(「統治」)を改めて考えてみたいと思います。
そして、その何をどう描いたら、このような現代の特徴を社会学的に描いた(「社会記述」)ことになるのか、議論していきたいと思います。ありがちな記述をどう超えるか、住民運動や市民ボランティアに期待する論理に内在して自治や参加型意志決定を権力に対置して寿ぐのでも、結局は権力・統治の片棒を担いでいるのだと上(外)から批判を展開したりするのでもない形で、一市民としても記述者としても巻き込まれているこの現実に挑む上での、地図と悩みを共有する場としたいと思います。その際には、社会学者はどこに軸足を置けばいいのか、進行中のワークショップ時代の統治の外部なのか内部なのか、その記述はワークショップ的なるものを担う専門家(コンサルタント)や行政の報告書や提言とは何が異なるのか、といった問題にもつらなってくるかと思います。
2020年12月大会から2021年3月例会へ
1年目の研究例会とテーマ部会では、いま述べたような実践志向が強い分野として、研究例会ではワーケーションとアートプロジェクト、テーマ部会ではまちづくりをとりあげ、その分野で日々活動している人々に対して、社会学者がどうかかわり、また独自の記述や活動を行うことができるのかを考えました。
12月大会で扱った、まちづくりの分野を例にして説明すると、1960年代の革新自治体の台頭あたりから、都市計画への住民参加が考えられるようになります。近代的都市計画を支えてきた、トップダウン型の、専門家主導の計画から、ボトムアップ式の、住民参加型のまちづくりへ、という構図がここにはあります。社会学者もこの構図に寄与したと思われますが、大体1990年代頃から、置き換えられるべき理想は徐々に現実のものとなっていきます。そのなかでやがて、市民参加や住民自身の選択という理想を掲げることは、いわゆる新自由主義的な自己責任とコストカットを下支えすることになってしまうのではないかという指摘がなされるようになり、これにも社会学者はかかわってきたと思います。
しかし、こうした参加や選択への志向が根付き常態化し、もはやまちづくりのさまざまな活動の前提条件のようになってくるとき、かつては有効だったかもしれない「新自由主義的」というような批判はどこか空を切ってしまうことになります。また、述べたような志向が常態化してくるとき、もちろん社会学者が必ずそうというわけではないのですが、「○○化」のような外在的な批評を行うスタンスのプレゼンスはかつてのようなものではなくなり、それよりも計画などのハード面、あるいは参加・対話といったソフト面における、目に見えて役に立つスキルをもったまちづくり実践者のプレゼンスが相当高くなってきます。ワークショップそれ自体が特にそうであるような、外在的批評がワークショップの肥やしとして取り込まれてしまう、実践の外部がないような状況の広がり、ダイナミズムも含めていうこともできます。
このような状況はもう少し広く観察できるように思われます。ではこのようななかで、社会学者は各種の対象にどう関わり、どう記述をしたらいいのか、この2年目、特にこの研究例会では、歴史研究を行っているお二人にご報告いただき、述べてきたような状況の構成を時間軸も含めてどう考えていくことができるのか、あるいはどんなことが考えられねばならないのか、話題提供をいただいたあとにフロアの皆さんとディスカッションできればと思っています。