gnck「画像の問題系 演算性の美学」を読んで

 はじめてお会いしたのは、大学2年生の時だったのかしら。当時は武蔵野美術大学芸術文化学科での非常勤講師を始めたばかりで、右も左もよくわからなかった。こんな感じでいいのかな〜と思いながら授業を終えた後に、「お勧めの読書リストを作ってもらえないでしょうか?」と声をかけられたのである。随分と熱心な学生がいるものだと感心し、「デザインに関する本が、デザインをより良く理解させてくれるとは限らない」と名付けたいい加減な読書リストを差し上げたのはよく覚えている(笑)。

 在学中には「JNTx梅ラボ 解体されるキャラ展」展(2009年、武蔵野美術大学apmg、http://9artz.jp/h/662/jnt_umelabo_gnck/)という、現在は「カオス*ラウンジ」で知られる梅沢和木http://umelabo.info/index.html)と現在は「カイカイキキ」に所属しているJNTHED(http://meiblog.fullmecha.com/base/profile)の二人展を企画・運営していた。所謂「美術史」が書いてこなかったデジタル画像の物質的な固有性に強い関心があったようで、『創造の欲望をめぐって―キャラ・画像・インターネット―』という卒業論文を書き、学科賞も受賞していた。

 その方による論文、gnck「画像の問題系 演算性の美学」が『美術手帖』による「第15回芸術評論募集」で第一席を受賞した(http://www.bijutsu.co.jp/bt/GH15_kekka.html)。簡単に言えば、描線が像を結ぶように、ピクセルが像を結んでしまう「奇跡」を、ビットマップとベクター、ドットとジャギーグリッチとインターフェースが観察される作品から説明することを通じて「画像の演算性の美学」と呼んでみたい!という批評である。学生時代から考えてきたことを、なるべく誰にでもわかるようにと丁寧に書かれている。

 メディア論的に読んでみると、「画像」というメディアの物質性を具体的に記述しようとしている点で興味深かった。というのも、そういう記述がもっともらしくなるのは、「低解像度、高圧縮率、データの破損」といった「メディアとして高級なものではなく、むしろ貧しいもの」を扱った時であり、その時にこそ「メディアの原理的な特性」が観察されるからである。「メディアは高度化すればするほど、透明な存在になっていく」とも書かれていたが、デジタル画像のそれらしさは質の高さにおいてではなく、むしろ質が低い状態においてこそ、理解しやすいものになっている。分かりやすく言えば、YouTube動画の動きがギザギザな時にこそ、「インターネットらしいねぇ」とその固有性を楽しめるのだ。

 他方で、「ジャギーは汚れではなく結晶なのだ」として「画像と演算性の美学」は成立するという行論は、美学ありきの書き方なんだろうなとも思った。例えば、社会学なら「ジャギーは汚れである、にもかかわらず、汚れに魅了されるのはいかにしてか?」と問いを立て、「ジャギーの汚染学」の成立条件を記述する方向を探る。gnckは、「汚れ」の水準で理解され、美術史に書かれてこなかった画像を「救済」するために「結晶」へと昇華させた上で、「画像と演算性の美学」に着地させているように思うのだが、社会学なら私たちはそれをいかにして「汚れ」と理解しているのかを記述することに徹すると思う。

 いや、もちろん美学と社会学は同じ対象においても複数の記述が成立可能であることをそれぞれに示せばいいんじゃね?と思うのだが、その両者を比較するなかで、どの辺で価値を消すことが出来なくなるのかは興味深いところである。画像における「ノイズ」や「汚れ」は正常な状態に対する異常な状態として記述可能だと思うけれども、「ローファイ」になると、そのように理解したい人の歴史観なしでは記述できなそうにも思う。テクノロジーとして何が達成されているのかということと、私たちがいかなる概念を使って画像を見ているのかということは、それぞれに探求可能であるはずだ。

 なお、授賞式で「ネットとかよくわからないオジさんたちに向けて書かれた解説」(https://twitter.com/kaichoo/status/513986394960564224)というスピーチがあって、そこそこウケた(笑)。受賞者をもっと素直に褒めてあげればいいのになぁと思いつつ、審査員への違和感のほうが強かったのかもしれない。これに対して、gnckは「別に「オジサン」に向けて書いたのではなくて、50年後、100年後もいるはずである初学者でも通じるように書いたつもりだ」(https://twitter.com/gnck/status/514221671452909568)という。まぁリアルタイムで進行する面白さにいち早く反応することと、リアルタイムでなくとも長く読まれるものを書いていくことは区別可能だし、そのほうがシーンも盛り上がるだろうというところか。私としては、選考委員において「どうでもよかったことが、どうでもよくなくなった」感があっただけでも、まずは成功と言えばよいと思っている。

 よい文章というのは、同じ題材を見て、自分だったらこういう書き方をしてみたいな〜と思わせてくれるものである。その意味で、gnck「画像の問題系 演算性の美学」は後続の書き手に文体の選択肢を与えたように思う。勿論、この批評以前にも似たような試みはあったのだろう。しかし、どこの誰が一番最初なのかという人称性の水準ではなく、何がどのように述べられたのかという個別記述の水準で楽しめるようになれば、美術批評はまだまだ面白くなるのではないか。誰にでも書けるかもしれない文章をたまたまgnckが書き、またそれが「第15回芸術評論募集」で第一席を受賞したことが、社会学的に考えて面白いところである(笑)。

▼gnck「画像の問題系 演算性の美学」(「第15回芸術評論募集」入選作発表、PDFで公開中)
http://www.bijutsu.co.jp/bt/GH15_kekka.html

▼「gnck「画像の問題系 演算性の美学」(美術手帖第15回芸術評論募集 第一席入選論文)を読んで」
http://togetter.com/li/720485

▼参考画像(図5、図10はなし)
・【図1】都築潤「New Insector」(2001年)
http://neweidos.cc/
・【図2】せいまんぬ「自負まんぬ」(2010年)
http://touch.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=9308538
・【図3】中ザワヒデキポチョムキン」 (1990年)
http://nakazawahideki.archive661.com/20120212_01/index.html
・【図4】二艘木洋行「敦己、グレープフルーツもちょうだい」(2014年)
http://nisougi.tumblr.com/image/80850072869
・【図6】トーマス・ルフjpeg msh01」(2004年)
http://38.media.tumblr.com/5e0b8cd9f5ed82e92fe7adee22415bc2/tumblr_n32jbdtdnO1rf1l2eo1_1280.jpg
・【図7】渡邉朋也「画像のプロパティ」(2014年)
http://watanabetomoya.com/work/display-properties/
・【図8】ucnv「Tab. Glitch」(2013年)
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2013/Openspace2013/Works/Tab_Glitch_j.html
・【図9】ヌケメ「グリッチ刺繍」(2012年)
http://nukeme.nu/post/28134782371/make-japan-official-glitch-embroidery-t-shirts
・【図11】エドゥアール・マネ「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」(1872年)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Edouard_Manet_040.jpg
・【図12】JNTHED「Deform」(2006年)
http://retype.fullmecha.com/post/55184249467/deform-by-jnthed-2004

美術手帖 2014年 10月号

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