「同質な空間」という神話

oxyfunk2004-02-24

 ニュータウンはどこまで「同質な空間」なのか。いいや、そんな単純ではないでのはないか。そんな当たり前な印象を確かめるための映画だったのかもしれない。
 映画のなかの二つの視線。記憶を再発見していく対象としてのニュータウンと美術展の対象としてのニュータウン。内部からの視線と外部からの視線。それは、山陽団地に住んでいる人の<リアル>と山陽団地に住んでいない人の<リアル>。ニュータウンへの想像力は内と外では異なっている。
 20年のローン生活を振り返った「自分の家でありながら、自分の家ではない」という不安の告白。ニュータウン第一世代は近隣との繋がりを大切にしていたこと。これらはそこが「同質な空間」であるという神話が隠蔽してしまう、山陽団地に住んでいる人間の<リアル>である。
 ニュータウンを「キャンバス」とみなし、白い団地壁に彩色された簾をかけたり、ベランダから赤い傘をかけたりすること。団地家族を真っ白で表すこと。これらはニュータウンが「同質な空間」であるという神話を前提とした、山陽団地に住んでいない人間の<リアル>である。
 ここに「切断」を発見するのは容易い。しかし、それだけじゃない。ここではニュータウンへの眼差しの位相がズレ/錯綜しているのだ。前者は山陽団地に「同質」ではない生活的(【内容】的)物語をみる。後者は山陽団地に「同質」な建築的(【形式】的)物語をみている。内部と外部はその眼差す主体の在処だけでなく、みている対象も異なるのだ。
 だからこそ、僕には外部の人間による内部への人間への「働きかけ」としての美術展がかみ合っていないようにみえる。【内容】に<リアル>を感じている人に、【形式】の<リアル>で訴えること。その微妙なズレに落ち着かないものを感じた。これこそ、ニュータウンへの想像力のズレであり、そこを「同質な空間」であると判断するかしないかのズレである。
 若林幹夫に「切断」の核心を問われた本田孝義は、二つの個人的な<リアル>の連続性で応えた。それはそれいいんだけれど、その瞬間にこの映画は「ドキュメンタリー」ではなく「ドキュメンタリー風私物語」になってしまった。上野千鶴子はどんな突っ込みをするんだろと思いつつ、ま、もういいか。よくいわれる「原風景なき原風景」を外部から確認するにはもってこいかな。
 さ、もう「あの二人」の時間です。よい子はラジオを消しましょう。
※参考
・本田孝義監督「ニュータウン物語」@パルテノン多摩
http://www12.plala.or.jp/toyama-honda/
http://www12.plala.or.jp/toyama-honda/trailer4.wmv
http://www12.plala.or.jp/toyama-honda/asahi-20040211.gif