判決へのサウンドトラック

 「あの日」の記憶が召還されている。新聞・テレビ・ラジオによって何重にも奏でられる判決へのサウンドトラック。「シケー」にするなというんじゃない。それでも、このクライマックスまでの調べに覚える「気持ち悪さ」の所在が気になる。「あの人」が「詐欺師」として断罪されること。それは「あの日」関連のことを思えば当然かもしれない。それでも、責任の所在を一点集中してしまうことで、問題は逆に見えなくなってしまっている面もあるだろう。
 「社会も悪い」「教育がよくない」「受験戦争はどうか」といった語りは、そうした状況で差し込まれてくる。突然の飛躍としか言いようのないこの「お約束」らしき反動にはしばしばいらいらする。これでは問題をどの視点から見据えて「否定」したり、「嘲笑」しているのかがわからないからだ。テレビは深刻な顔をしながら私に向かって「チャンネルを変えてもいいですよ」と語りかけているように見える。判決へのサウンドトラックに感じる「気持ち悪さ」は、こんな処から生まれているのかもしれない。
 大澤真幸は「詐欺師によって不意打ちを食らわされた」としてしまうなと言う(『虚構の時代の果て』ちくま新書)。責任を「詐欺師」に集中させ、「社会」や「教育」による改善を訴えること。これでは問題の在処を「お茶の間談義」に溶け込ましてしまい、また新たな「詐欺師」を呼び込んでしまうきっかけになってしまう。
 こんなことはこの9年間に何度も言われてきたんだろう。それでも「あの日」の記憶が過剰に召還されている現在、一人の「詐欺師」や「社会」「教育」に問題を還元できるほど、他人任せな事態ではなかったことも、再度呼び返される必要を感じる。(△)
 

  • 大澤真幸、デイビッド・ポートティ、「「赦し」の可能性」、『世界』、2004年2月号、岩波書店

 被害者家族が大きな悲しみを抱き、被害者が「報復」を望んでいる場合、彼らよりも遠い関係の私たちには「報復」を「反対する権利」があるのだろうか。それはない。と同時に、被害者家族にも「報復」の「権利」はない。本質的に「怒ったり赦したり」できるは被害者だけなのだ。本稿は、それでも私たちが被害者との「距離の感覚」によって、被害者への「関わりを動機づけ」していくこと、その可能性を「敵意と憎しみ」ではなく「赦しの精神」に求めている。
 被害者家族の「論理と倫理」について安易にコメントはできないのだが、被害を受けて「敵意と憎しみによって戦う」か「赦しの精神で戦う」を選択できるのは、被害の原因(=<なぜ?>)をいくらか辿れる場合と考える。認める認めないは別として、911後のアメリカのように。しかし、その<なぜ?>がなかなか辿れない場合、「赦しの精神」の居場所を探るのは困難を極めるだろう。それでも「敵意と憎しみ」を選択せずになんとかバランスを保てられる手段を残しておくこと。それが「赦し」の可能性へのきっかけとなればよいのだが。