「時代のドラマ」なき<青春>

oxyfunk2004-02-27

 ブルーハーツが「青春パンク」として聞き直されている。「バンドブーム」世代の僕としてはちょっと恥ずかしい感じがある。当時は「人にやさしく」も「青空」もそれが<青春>だなんて思ってもいなかった。それがいまになって<青春>と呼ばれることで呼び出される当時の青臭さと無闇な暴走。突然ではあるが、ここで二人の「ミウラ」の<青春>にちょっと耳を傾けてみよう。
 <青春>は、「かつて、疑いもなく、異様なほどの輝きを帯びて」いた。20世紀初頭に文学によって発明されたこの言葉は、「人の生き方を支配」しつつ「文学をまで支配」していた。三浦雅士(『青春の終焉』、講談社、2001年)は、<青春>がその「最後の輝き」を放ったのは「1968年」であり、それからは急速にその「輝き」を失い、「消えていった」とする。彼のいう<青春>とは「社会的覚醒であり、革命であり、政治的かつ芸術的前衛であり、恋愛であり、その挫折」である。
 三浦にとって『朝日ジャーナル』は「青春の雑誌」であり、「60年代を代表する雑誌」であった。その『朝日ジャーナル』は、ひとつの支配的な<青春>の姿=学生運動を記録していくわけだが、「小難しい雑誌を読みもしようが、いずれ大衆のなかに紛れてゆかざるをえない」現実を内面化した「大衆化した学生」を前にして急速に凋落していく。なぜか。三浦は「規範としての青春」という1960年代的論理が1970年代には「かなりな速度で稀薄になりつつあった」からという。実際のところ、「規範的」で「説教くさい調子、倫理を強いる口調」の<青春>の担い手としての「青年」は、1970年代の『朝日ジャーナル』において「若者」と積極的に読み替えられていかざるを得なかった。<青春>の「規範性」はこのようにして脱色していったのだ。三浦はそれを「終焉」と呼ぶ。
 そんな脱政治化された<青春>を「露出狂」的に「謳歌」したのはもう一人の「ミウラ」、みうらじゅん(「振り向けば青春汁」『FLIT』7号)である。彼の<青春>に「覚醒」や「革命」や『朝日ジャーナル』はない。むしろ『平凡パンチ』的ともいえよう。彼にとって<青春>は、「勝手に解釈」するしかない「情報の少なさ」が前提なのだ。外部との接続が制限されているがゆえの想像力。「ガセネタ」をまじめに信じて暴走する姿(例えば、童貞時代の妄想、マイブーム)を思い浮かべてみるといい。みうらにとっての<青春>は発見していくものなのだ。だからその「終焉」はない。
 世代論に還元するつもりはない。それでも「青年」の三浦雅士と「若者」のみうらじゅんとの<青春>への想像力は大きく異なっている。外部との接続を求めていく集団を前提とした三浦の<青春>と外部との接続を極力閉じる個人を前提としたみうらの<青春>。どちらも青臭さと無闇な暴走を孕むものでありつつ、その主体の置き方にズレがある。
 こうしたズレの発見は今回が初めてではない。吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』の「あとがき」を思い出した。

70年代半ばに青年期を迎えたわたしの前にあったのは、「闇市」から安保を経て「紛争」に至る広い意味での「戦後なるもの」を消失した時代状況であり、それ以前の世代ならば好むと好まざるとにかかわらず体験したであろう時代のドラマを、わたしたちは何ら世代として共有しえなかったこと。

 みうらと吉見が共有した<青春>は「時代のドラマ」なきドラマなのだろう。こうして脱政治化された<青春>は、もはや集団としてのそれではなく、個人のものとして語られるようになった。「時代のドラマ」としての<青春>が「終焉」した以上、再発見される<青春>は個人的な青臭さと無闇な暴走の記憶でしかない。甲本ヒロト真島昌利の声が<青春>として召還されている今、彼らの兄貴世代であるみうらじゅんのいう<青春>しか発見できない僕は、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれない。