「特集:100年前のデザイン」『d/sign』no.8、太田出版、2004年
うーん、出ましたねぇ。「100年前の細部」(古賀弘幸)における「11:図案からデザインへ」の部分は、<商業美術家>がいかに誕生していったのかを詳細にみていくことにより、古賀さんのいう「理論と広告」がかなりクリアになるはずである。書こうと思っていたところなのでドキっ。いままでは「商業美術」(広告人)との対比でしか「図案」(画家)をみていなかったが、それ自体が興味深い対象であることを教えてくれるのが「「図案」という概念」(入澤美時)。商業美術は目的と手段に合意することで合理性を追求する都合上、作家性は全面に出さないことに合意するものであった。「図案」は「作家性」を創出したが、「商業美術」はその「作家性」を「図案」とは異なるところに位置づけることでそのアイデンティティを獲得したのである。あー、やっぱり書きたい…。
「汚染学としてのメディアリテラシー論」(北田暁大)は、「マスメディアが提示する汚れ」ではなく「オートポイエーティックに再生産されていく「汚染」」があるという。「汚染」が生み出すかもしれない「紋切り型な世界像を突き崩す契機」はありうるだろうし、その意味で「「汚染」の両義性」は理解できる。にしても、こうした「空間のリアルの捕捉」が「困難」なのは、それなりの理由があるのだろうか。私たちはどれだけ「汚染」と向き合うことができるのだろう。汚染を「汚染」とすることに留保したまま、コミュニケーション行為を続けていくこと。言語的体力がある人ならそれでいい。いやいや、この難しさを言語的体力でしか乗り越えることができないとする事自体が問題を孕んでいるのではないか。「ハーバーマス的「達人倫理ノススメ」」についつい回収されやすいメディアリテラシー論はそれ自体が困難な認識論的転回を求められているように思える。