『デジタルメディアの社会学』に至るまで
「メディア論」との出会いは2000年前後だった。家庭用インターネットはまだISDN回線のテレホーダイが主流だったので、夜11時から朝8時までの定額料金時間帯にいろいろと遊んで、それから寝るような感じであった。こんな生活をしていて本当に大丈夫なのか?と話し合う相手もネットのなかにしかいない状態だった時、どうも「メディア論」という学問領域があるらしいと聞いたのである。
最初に読んだのは、水越伸『デジタル・メディア社会』(岩波書店、1999年)だった。「どーせ、東大のおじいさん先生が無理して書いた本だろ…」と読む前から決めつけていたのだが、予想外に執筆者が若いことに驚き、またインターネットまでの展開を歴史的な視座で捉えていく記述をとても面白く読んだのである。
その結果、吉見俊哉・水越伸『メディア論』(放送大学教育振興会、1997年)を次に読んだ。「あ〜、吉見という人は「カルチュラル・スタディーズ」で、水越という人は「メディア・リテラシー」らしく、二人は東京大学の社会情報研究所ってところにいるんだな〜」と、私なりにメディア論の地図が見えてきたのである。
その次は、東京大学社会情報研究所(編)『社会情報学 I システム』+『社会情報学 II メディア』(東京大学出版会、1999年)だった。これらの本を読んでも「社会情報学」が何であるのかはさっぱりわからなかったが、そうでも呼ばないと学問にはならない「何か」があるらしく、その一つとしてメディア論があることになっているのはとてもよくわかった。吉見先生は「カルチュラル・スタディーズ」の教科書を書き始め、水越先生は「ソシオメディア論」という主張をしていた頃である。
あの頃に感じたメディア論への面白さは、なかなか上手く説明できない。自分が若かったということもあるだろう。一方で毎晩朝までインターネットをやっている現実があり、他方でそういうバカバカしさを20世紀初頭の無線ラジオ少年にまで遡って結びつけてくれる学的記述に魅力を感じたのである。メディアを研究することは、現在の事例からというよりも、歴史的な展開で捉えたほうが面白いと思ったのである。
しかし、今となってみれば、当時のそうした面白さも二つの流れへと展開していったようにも思う。一つは、「○○の誕生」という形式の歴史記述の量産。基本的には、歴史資料への接触可能性が高くはなかった当時において、こうした作業はそれなりの意味を持っていたと思う。しかし、そうした資料の多様性とは別に、結論が類似してしまう困難を抱えたままであったように思う。事例は増えても、知見としての新規性が見えにくくなってきたのである。
もう一つは、「メディア・リテラシー」という実践の幅広い展開。日本社会において、この言葉はVチップによるマスメディア規制をいかに回避するのかという文脈にあり、その結果として、教育現場やマスメディアの現場などでメディア・リテラシーが「ワークショップ」として導入されるようになった。しかし、技術革新が加速度的に進むデジタルメディアに対して、マスメディアを前提にしたメディア・リテラシーは十分に対応し切れず、実践としての事例は増えても、やはり知見としての新規性は見えにくくなったのである。
ここまでを踏まえ、2000年代末にメディア論の新しい教科書を作ろうというお話が出た時、一体何をどのように記述すれば「教科書」になるのかが、まるで検討がつかなかった。何かしらの理論があることにして、そこから様々な事例を説明するのはかなり強引な記述だとわかっていたし、そうしたところで、そのように書きたい人がいるのだということくらいしかわからないようにも思えたのである。
土橋臣吾・南田勝也・辻泉(編)『デジタルメディアの社会学』(北樹出版、2011年)に寄せた拙稿「「つながり」で社会を動かす」(第8章)と「メディア・リテラシーの新展開」(終章)は、こうした悩みを抱えながら書いたものである。そして、結局のところは、何かしらの理論を持ち込むのではなく、ユーザーとしてある程度は経験しないとメディアについて記述したことにはならなくなっていること自体を記述することにした。私が好む言い方をすれば、事象の外部から記述するのではなく、事象の内部にあり続けなければ記述がそれとして意味を持たなくなってしまうことを、書くことにしたのである。以下は、第8章の冒頭に書いたものである。
社会を語る「べき論」の居場所が、イデオロギーからテクノロジーにズレてきた。いわゆる「思想」が社会を語るよりも、「技術」が社会を語るほうが妙に納得できてしまうというか、わざわざ大きなお話でなくても、現実の問題に対する部分的最適化が技術によってズルズルと達成されるようになったのである。
このように考えれば、人文知がいかに社会を観察しているのかをメタレベルで観察してきたように、技術知がいかに社会を観察しているのかをメタ観察するような方法もありうるのではないだろうか。つまり、社会を語る思想や運動に内在してきたように、社会を語る技術や実践的な提案に内在するのである。
メディア論を少し勉強した人であれば、こうした選択を「技術決定論」だと批判したくなるかもしれない。しかし、これこそ今や無視の対象にすらなっていないことを、人文知はその深さによって反省的に捉える必要がある。こうした意味で、本章は技術者になるつもりがなくても、技術の在り方自体には関心を持ち続け、そのことを通じて社会を構想していくことが可能なのかという点について述べていこうと思う。
「教科書」を書くのは難しい。というか、教科書という形式に向いている知識とそういう形式には向いてはいない知識が共存しているのが、現在の大学であろう。理論を外挿して事例を強引に飼い慣らすのではあく、かといって単なる事例集に落ち着いてしまうのでもなく、現在進行形の事象を「いかにして書いたことにするのかを書いていく」のが、こんなにも困難な作業とは思わなかったが、このようにしか書くことができなかったという歴史的な資料を残すことはできたと思う。読みにくい文章かもしれないが、その読みにくさに、簡単には書いてしまわないことの意味を読み取ってもらえたら、本当に幸いである。
序章 環境化するデジタルメディア(土橋臣吾)
1.「環境」としてのデジタルメディア
2.環境に閉ざされる
2−1.アーキテクチャによるふるまいの管理
2−2.環境に内在すること
3.環境を使いこなす
3−1.創造的な利用
3−2.デジタルメディアの可塑性
4.本書の構成第?部 問題を発見する
第1章 ウェブは本当に情報の大海か(土橋臣吾)
1.「何でもある」は本当か?
2.情報を選別するということ
2−1.見たいものしか見ない
2−2.人気投票としての検索ランク
3.パーソナライゼーション
3−1.大海かプライベートビーチか
3−2.リコメンデーション・サービス
4.ソーシャルな情報収集第2章 ネットは自由な空間か管理された箱庭か(土橋臣吾)
1.生み出す力
2.箱庭としてのインターネット
2−1.ひも付きアプライアンス、クラウドサービス
2−2.無線とラジオの物語
3.「生み出す力」とユーザーの意識
3−1.インターネットをめぐる不安
3−2.オープンソースとインターネット
4.ユーザーの立ち位置第3章 ケータイは友人関係を広げたか(辻泉)
1.ケータイと友人関係の切っても切れない関係
2.ケータイは友人関係を広げたか
2−1.希薄化説から選択化説へ
2−2.選択化説から同質化説へ
2−3.用いる調査データ
3.調査結果からみえてくる実態
3−1.ケータイの利用実態
3−2.量的に広がる友人関係
3−3.質的には広がっているのか
3−4.どのような友人関係に満足しているのか
4.持続される「引き算の関係」第4章 ゲームはどこまで恋愛できるか(木島由晶)
1.美少女キャラは「俺の嫁」か
1−1.ビデオゲームの悩ましさ
1−2.ビデオゲームの心地よさ
1−3.理想の恋愛を味わうゲーム
2.恋愛ゲームの新局面
2−1.恋愛ゲーム化
2−2.ゲームとしての「ラブプラス」
2−3.ペットとしての「ラブプラス」
3.恋愛の理想と現実
3−1.期待はずれのない安心
3−2.期待はずれの生む幸せ
3−3.親密性の消費
4.仮想恋愛のゆくえ
4−1.仮想を現実的に楽しむ
4−2.仮想世界との4つのかかわり
4−3.「エクストリーム・ラブプラス」
4−4.キャラクターとの「コミュニケーション」第5章 動画共有サイトでは何が共有されないか(木島由晶)
1.テレビ視聴のオルタナティブ
1−1.テレビにおもねらない流行
1−2.動画共有サイトの躍進
1−3.視聴スタイルの刷新?
2.録画の外部化
2−1.お茶の間の分析
2−2.テレビ欄の変貌
3.共同性の演出
3−1.ハガキ職人風の達成感
3−2.お茶の間風の一体感
4.同質性の袋小路を越えて
4−1.タグづけとフォークソノミー
4−2.情報の落ち葉をかき集めること
4−3.「類友」をかき集める技術
4−4.ビデオ・スナッキングの憂鬱第6章 iPodはコンテンツ消費に何をもたらしたか(南田勝也)
1.偏在するポピュラー文化
1−1.文化作品はコンテンツへ
1−2.「コンテンツ」が表象するもの
2.価値の概念とデジタルコンテンツ
2−1.固有性の価値
2−2.希少性の価値
3.iPodユーザーたち
3−1.iPodをめぐる状況
3−2.デジタルをプレイするスタイル
3−3.CD棚を持ち歩くようなスタイル
3−4.MD(ミニディスク)プレーヤーの延長としてのスタイル
3−5.DJのように音楽を操作するスタイル
3−6.情報機器のユーザビリティがもたらす親密感
4.過渡期としての現代社会
4−1.それだけで充足する情報端末
4−2.価値を取り戻すために
4−3.テクノロジーの行方第?部 可能性を探る
第7章 オンラインで連携する(辻泉)
1.「個人化社会」で連帯できるか
1−1.「個人化」する社会
1−2.あらたな連帯の可能性へ
2.アナログ時代のファンコミュニティ
2−1.ファンコミュニティの誕生
2−2.拡大するファンコミュニティ
3.デジタル時代のファンコミュニティ
3−1.オンライン・ファンコミュニティの誕生
3−2.変容するオンライン・ファンコミュニティ
4.オンラインにおける連帯のゆくえ第8章 「つながり」で社会を動かす(加島卓)
1.みんなという「つながり」
2.オープンソースとしてのLinux
3.Web2.0としてのwikipedia
4.「つながり」の前提
5.いつまで経っても未完成
6.「つながり」の二重写し第9章 ケータイで都市に関わる(土橋臣吾)
1.舞台としての都市、素材としての都市
1−1.舞台としての都市
1−2.素材としての都市
2.「ギャル」のケータイ的都市経験
2−1.エクストリーム・ユーザー
2−2.「ギャル」の一日を追尾する
2−3.プラットフォームとしての都市/ケータイ
3.ジオメディアの展開
3−1.ケータイで現実空間に関わる
3−2.ジオメディアの可能性
4.ケータイと都市の豊かな関係へ第10章 リアルタイムウェブを生きる(永井純一)
1.リアルタイムウェブは新しいのか?
1−1.「情報の速度」と「時間の同期」
1−2.いつでもどこ(から)でも
2.Twitterのコンテンツとコミュニケーション
2−1.タイムライン=コンテンツを作る
2−2.ツイートによるコミュニケーション
2−3.リツイートによる情報の拡散
2−4.Twitterは新しいか
2−5.Twitterがつなぐもの
3.Ustreamの間メディア性
3−1.ダダ濡れするメディア
3−2.擬似同期から真性同期へ
3−3.間メディア性と真性同期
4.時間がつなぐもの第11章 デジタルメディアで創作する(永井純一)
1.作曲の時代?
1−1.アマチュア創作の台頭
1−2.UGC/UCCの時代
2.宅録からDTMへ
2−1.デスクトップで作られる音楽
2−2.VOCALOIDの衝撃
2−3.広がるアマチュア創作
3.RO文化からRW文化へ
3−1.「やってみた」、マッシュアップ、リミックス、N次創作
3−2.コミュニケーションの誘発
〜「みくみくにしてあげる♪」【してやんよ】」
3−3.物語消費からデーターベース消費へ
〜「道夏大陸20分でわかるPerfume」
4.クリエイティブな受け手第12章 デジタルコンテンツとフリー経済を考える(南田勝也)
1.無料経済
1−1.パッケージ販売の低下
1−2.誰が対価を支払うのか
1−3.フリー経済のモデル
2.グローバリゼーションの進行
2−1.グローバリゼーションとは
2−2.コンテンツとコンテナ
2−3.ユビキタスという大儀
3.ガラパゴス化する日本
3−1.ガラパゴス化とは
3−2.コンテンツを囲い込む
4.舵をどう握るか
4−1.コンテンツをただで配る
4−2.コンテナを利用する
4−3.おわりに終章 メディア・リテラシーの新展開(加島卓)
1.ソフトウェアの社会
2.「喩え」としてのメディア論
3.マスメディアとメディア・リテラシー
4.「アーキテクチャ」としてのソフトウェア
5.ソフトウェアを笑いあう
http://www.hokuju.jp/books/view.cgi?cmd=dp&num=782
なお、嬉しいことに多くの大学で教科書採用されているそうで、緊急増刷と来年度には改訂版が出ることになっております。本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
- 作者: 土橋臣吾,辻泉,南田勝也
- 出版社/メーカー: 北樹出版
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