『ザ・ベストテンの作り方』に至るまで

 「へぇ、テレビでも研究が出来るんだぁ〜」と知ったのは、吉見俊哉(編)『メディア・スタディーズ』(せりか書房、2000年)を新宿御苑の古本屋で手にした時だった。当時「ドットコム企業」と呼ばれたアメリカ系インターネット企業のシドニー支社への転職話がダメになり、そもそもの勉強不足を悔やんでいた頃である。

 その流れで、J.フィスク『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社、1996年)や伊藤守・藤田真文(編)『テレビジョン・ポリフォニー』(世界思想社、1999年)、伊藤守(編)『メディア文化の権力作用』(せりか書房、2002年)やロジャー・シルバーストーン『なぜメディア研究か』(せりか書房、2003年)などを面白く読んだのだが、微妙にピンと来なかった。テレビが「記号」や「テクスト」として読解されていたのだが、そのための前提を共有していないような気がしたのである。

 それゆえか、小林直毅・毛利嘉孝(編)『テレビはどう見られてきたのか』(せりか書房、2003年)はテレビの「オーディエンス」研究として興味深く読んだし、石田佐恵子・小川博司(編)『クイズ文化の社会学』(世界思想社、2003年)などはテレビにおける「ジャンル」と私たち自身の経験の関係を丁寧に教えてくれたように思う。当時は大学院生だった記憶からすれば、スチュワート・ホールの「エンコーディング/デコーディング」モデルが様々な対象に適用され、能動的な受け手を記述するそれらが「ファン」研究と呼ばれつつあった頃である。テレビやメディアを書くことは、テクスト分析からファンの経験的記述へと幅が広がろうとしていた。

 今になってみれば、こういう流れだったと思うが、そのなかでも、太田省一『社会は笑う』(青弓社、2002年)は衝撃だった。何かしらの理論を使って、テレビを記述するというよりは、テレビをじっくり観てきたという個人的な経験の積み重ねが、結果として「社会学」(ボケとツッコミの人間関係の記述)になっていたのである。このあたりから諸先輩方は昔のテレビのことを楽しそうに語り始め、それは「大人としてテレビを語る」というよりも、「テレビを語って子どもになる!」という感じに見えた。そういうノリが生み出したものとして、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年)や長谷正人・太田省一(編著)『テレビだョ!全員集合』(青弓社、2007年)などがあったようにも思う。

 テレビ研究における「歴史」は、こうした展開のなかで見え隠れしてきた。放送局や大学ではテレビ番組の「アーカイブ」研究が動き始め、他方でテレビ関係者への「オーラルヒストリー」研究も出て来た。1953年にテレビ放送が始まって以来、2012年で60周年である。次々と放送されては消えていく番組を保存するとは、何をどうすることなのか。また、あの頃のテレビはどういうものであり、それはいかに制作され、どのように見られたのか。志賀信夫『テレビ文化を育てた人びと』(源流社、2007年)や日本放送作家協会(編)『テレビ作家たちの50年』(NHK出版、2009年)など、お話を伺える時に聞いておかないと、記録の不在が事実の不在になってしまいかねないタイミングなのである。

 こうした経緯もあって、「テレビ美術研究会」は2010年夏に発足した。「テレビとは何か?」を「テレビ美術」との関係で検討するために、音楽番組やニュース番組、バラエティ番組やトーク番組などにおけるテレビ美術担当者に聞き取りを行ってきたのである。ここで出版された、三原康博+テレビ美術研究会『ザ・ベストテンの作り方:音楽を絵にする仕事』(双葉社、2012年)は、その成果物となる。

『ザ・ベストテン』の作り方

『ザ・ベストテン』の作り方

序章 『ザ・ベストテン』の時代:お茶の間が見た至福の夢 太田省一
第一章 『ザ・ベストテン』という番組
コラム とびきりの「場」を楽しみに待った:視聴者から見た『ザ・ベストテン』 廣谷鏡子
第二章 『ザ・ベストテン』の歌と美術セット
コラム ランキングボードがあった頃 小泉恭子
コラム 「雑音」を排さないテレビ美術 山口誠
第三章 音からイメージを作り出す
コラム ビジュアルによる音楽の記憶 峰野千秋
第四章 テレビ美術という仕事
特別対談 三原康博×山田崇臣
コラム テレビのなかのモダンデザイン 加島卓
文献ガイド 「テレビ美術」をどう研究するか 米倉律
巻末資料 三原康博の『ザ・ベストテン』全仕事
http://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-30480-0.html

 『ザ・ベストテン』は1978年から1989年までTBS系列で放送された音楽番組だが、1975年生まれの私にとっては微妙な存在である。というのも、『オレたちひょうきん族』(1981年〜1989年、フジテレビ系列)でパロディされていた「ひょうきんベストテン」の印象が強烈すぎて、年少期における『ザ・ベストテン』自体の記憶が上書きされてしまっているからだ。そこで私は番組自体のお話を伺うというよりは、「美術系大学を卒業した人がいかにテレビ局で働いてきたのか?」という関心から耳を澄ますことにしたのである。

―――足の彫刻のお話を聞いていて、三原さんはやはり図案科にいた方なんだなということを強く感じました。
三原:ぜひその納得の仕方を教えてください。
―――お話を聞いてハッとしたのは、三原さん自身が粘土を使って直接手を加えているわけではなく、学生にそれをやってもらっているという点です。三原さんはスケッチを描き、それを別の人に頼んで作ってもらい、その出来上がったものを見て「やっぱりこれなんだよ」と言えてしまうところが、三原さんの経歴を非常によく示しているように感じたんです。
三原:ありがとうございます。やっぱり僕の手じゃだめなんですよ。絶対にロダンみたいになりっこないってことは僕が一番よく知っているから。だから作品として良いものにするなら一流の人にやってもらいたいという思いが強いんですよね。一番いい姿に、ちゃんと理想的な姿にしてもらいたい。そうすると絶対に人の手を借りないとだめだっていうのがあって、自分一人では作りきれない。完成品のイメージは頭の中にあるんですよ。それを『ベストテン』的にこうしよう、ああしようと試行錯誤はいろいろやってる。(本書、pp.307-308)

 三原さんは、1961年に東京藝術大学美術学部工芸科図案計画を卒業している。デザイン史的に言えば、人口の増加に伴ってグラフィックデザイナーを目指す学生が増え始めた時期であり、三原さんの同級生にはパルコの広告で知られる石岡瑛子さんがいるなか、「まわりからは「おまえ、なんで?」という感じで思われて」TBSに入社したという。グラフィックデザインを勉強した学生がテレビ局に勤めるなんて思われていなかったのだが、集団制作を本格的に肯定し始めた当時のグラフィックデザインの「やり方」は、何も広告に限らない分野での展開を見せ始めたのである。

 拙稿「テレビのなかのモダンデザイン」は、そうした展開を具体的に紹介したものである。1950年代に理想とされた「モダンデザイン」は、1960年代にイラストレーションが急上昇したことで、急速にそれへの信憑を失った。その結果、グラフィックデザインにおいては丸や三角や四角を組み合わせた表現が消えていったが、実はそれらは当時の新しいメディアだったカラーテレビのなかに居場所を見つけていったのである。三原さんが担当した『ザ・ベストテン』のテレビ美術は、その痕跡にあふれている。その意味で「モダンデザインは終わらなかった」し、現在の状況を踏まえれば、「テレビのなかのモダンデザインは二周目に入った」とも言えそうなのである。

 なお、刊行後に三原さんとお話する機会があり、拙稿へのお褒めの言葉を頂いた。テレビ研究の文脈ではなかなか共有されにくいことかもしれないが、テレビのなかでのグラフィックデザインの役割をそれなりに調べ、「美術系大学を卒業した人がいかにテレビ局で働いてきたのか?」という記述を当事者にも納得してもらえたことを本当に嬉しく思う。あやうく「ネット時代の映像文化とテレビ美術の現在」みたいなコラムを書くところだったが、〆切直前に方針変更して大成功であった(笑)。

 是非、お読み頂けると幸いです。ブックカバーは寄藤文平さんのデザインですよ!