「原爆を視る」展の開催中止に伴う、図録用原稿の公開

 2011年3月11日は本務校におり、揺れの強さから東海地震かと思った。間もなく「東日本大震災」と呼ばれ始め、津波・余震・原子力発電所の事故に伴う、ライフラインの確保・停電・飲食物の摂取制限・風評・買い占め・疎開といった多重的な不安に対して、そんなに高くもない情報リテラシーを駆使した分だけ疲れるようにもなった。

 このような疲れの抜き方を身につけ、また生存と復興を引き受け出した頃、いろんなことが「中止」や「延期」になり始めた。大学で言えば、卒業式や入学式であり、新年度の授業開始を一ヶ月遅らせた大学も出てきた。先の見通しが立ちにくい「東日本」の事情に配慮してのことである。

 こういう状況だったので、ある種の予感はあった。というのも、「ハト=モダンデザインの蒸発:戦後日本の平和ポスターにおける形象の系譜」という原稿を、東京都目黒区美術館で開催予定の「原爆を視る1945-1970」展(平成23年4月9日〜5月29日)のために書いていたからである。そして、3月24日に担当学芸員から「中止」の電話連絡があり、以下の情報と記事が掲載されたのである。

原爆を視る1945-1970
*下記会期で開催を予定しておりましたが、開催中止とさせていただきます。
会 期:2011年4月9日(土)〜2011年5月29日(日)

 このたびの東北地方太平洋沖大地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災されました皆様、ご家族の方々に心よりお見舞い申しあげます。一日も早い復興をお祈りいたしております。
 目黒区美術館といたしましては、大震災の惨状や原発事故による深刻な影響を受けている多くの方々の心情等に配慮いたしまして、「原爆を視る」展(平成23年4月9日〜5月29日)の開催を中止することといたしました。
 お客様や関係各位には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
 なお、今後の展覧会のスケジュールについては、決まり次第ホームページ等でお知らせいたします。
財団法人目黒区芸術文化振興財団
目黒区美術館
http://mmat.jp/exhibition/archives/ex110409-2

「東京の原爆美術展中止 目黒区美術館「事故と重なる」」『中国新聞』(2011年3月24日) 

「今こそ意義」疑問も
 東京都の目黒区美術館を運営する区芸術文化振興財団は23日、4月開幕の特別展「原爆を視(み)る1945―1970」の中止を決めた。福島第1原発の事故で首都圏でも平時を上回る放射性物質が検出されるため、「放射線被害を含む原爆と事故のイメージが重なる今は、鑑賞してもらう内容ではない」と判断したという。
 特別展は、制作者がどう原爆に向き合い、見る側はどう作品を受け止めてきたかの検証を通じ、原爆が戦後の日本に与えた影響を見つめ直そうと企画。1945年から26年間に発表された原爆に関する絵画や写真、漫画など約600点を準備した。同館などが主催し、広島、長崎両県市や日本被団協も後援して4月9日〜5月29日に開く予定だった。
 田中晴久館長によると、事故を受けて財団で対応を協議。財団理事でもある館長は「被爆からどう復興してきたかを知る意味でも意義は大きい」と開催を主張した。これに対し、他の理事からは「放射能汚染に敏感になっており、鑑賞に来る気になるのか」という意見が多く、この日の理事会で正式に中止を決めた。
 東京都原爆被害者団体協議会(東友会)の飯田マリ子会長(79)は「放射能の恐ろしさを考える機会として、今こそ意義も反響も大きいはず」と疑問を示す。
 洋画家福井芳郎が残した被爆直後のスケッチなど、資料70点余りを貸し出す予定だった原爆資料館広島市中区)の杉浦信人副館長は「企画書によると大変充実した内容で、期待していた。時期をずらしてでも開催してほしい」と残念がった。(岡田浩平、道面雅量
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201103240075.html

  こうした展開を受け、美術館への抗議が出るようになった(http://togetter.com/li/115560)。また、その一方で2012年度に開催しようとする動きも出てきた(http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/1580.html)。そして、中止の決定から約一週間後には、以下のような記事も出た。

原発事故で「原爆展」中止に 目黒区美術館」『朝日新聞』(2011年3月30日)

 東京都の目黒区美術館で4月9日から開かれる予定だった「原爆を視(み)る 1945―1970」展が、東日本大震災とその後の原発事故を受けて中止になった。同美術館は「展覧会の趣旨は震災や原発事故と関係ないが、イメージが重なる部分があり、この時期にあえて鑑賞してもらう内容ではないと判断した」としている。
 展覧会は、広島と長崎への原爆投下とその影響を、美術家や写真家、マンガ家らがどのように表現し、鑑賞者や読者がどのように受け止めてきたのかを検証しようと企画された。埋もれていた資料を各地で発掘し、被爆地を描いた絵画や写真、ポスターなど、演劇や文学関係のものも含め、1945年から70年までの間に制作された計600点を展示する予定だった。
 同美術館によると、震災後に目黒区および美術館を運営する同区芸術文化振興財団で協議し、「放射能への不安が広がる中で(被災者など)影響を受けている人々の心情に配慮して中止を決めた」という。田中晴久館長は「復興の力を伝えるうえでも意義のある展覧会で、2012年度の開催を目指したい」と話している。
 震災後、美術館に対し、被災者や区民などから開催に反対する意見は寄せられていないという。展覧会の準備に協力してきた広島や長崎の原爆資料館被爆者団体は中止の決定を残念としており、美術関係者らには「今こそ開くべき展覧会」などの声が上がっている。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201103300284.html

 私個人としては開催中止はとても残念だったと思うと同時に、公立美術館の性格を考えると難しい判断であったとも思う。担当学芸員は献身的に取り組んでいたけれども、さすがに個人と組織とでは判断できる量や質が異なる。今回の決定については、特定の人間に帰責できるような内部の事情というよりは、2011年3月24日の時点では予測困難な展開を踏まえての外在的な諸事情としか言いようがない。

 勿論、「今こそ開くべき展覧会」という声はわからなくもない。しかし、それと同じようには決してあがってこないであろう別の立場の声に対して、どのように耳を済ませばよいのだろうかとも思う。先のタイミングで「見に来なければよい」と判断できるのは、美術を深く信じている場合か、そもそもどうでもよいと思っている場合であろう。つまり、美的な価値の自律(と無視)の側から今回のことを考えるか、あのタイミングではどうしようもない文脈依存性の側から今回のことを考えるかの違いであって、またそのどちらにも振り切れない事象だと思ったのである。

 その後、担当学芸員より展覧会の次年度開催を目指していると同時に、図録原稿は適当な場所があれば発表しても構わないと連絡があった。そこで、ここまでの諸事情を踏まえ、PDF形式で原稿を公開したいと伝えたところ、その許可を頂いた。これにあたり、担当学芸員と合意した方針は以下の通りである。

(1)個人サイト(http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/)にて、これまでの文脈を紹介し、原稿全文をPDFでダウンロード可能にする。図版は全て引用扱いで、モノクロにする。
(2)公開後、出版する機会があった場合、目黒美術館より許可を得ていることを付記する。

 担当学芸員から与えられたお題は、展覧会のテーマとグラフィックデザインの関連であり、最初の打ち合わせで「平和ポスター」に対象を絞り、なぜにして「ハト」が描かれてきたのかを問うような原稿にしようというお話になった。こうした経緯から、平和ポスターは「ハトを見せれば大丈夫!」と安心していた男の子のグラフィックデザイナー達が、そうも簡単にはいかないことに気づき始め、四苦八苦してしまう物語を書き上げるに至った。美術史やデザイン史的には不満を感じる方がいらっしゃるかもしれないが、そのような記述とは別の方向で誠実に書いたつもりである。

 一人でも多くの生存と社会の再生を願い、また「原爆を視る1945-1970」展が開催されることを強く希望しつつ、これからの展開に途を開くという意味で原稿をPDF公開します。暫定的な書誌情報とダウンロード先は以下の通りです。本当に拙い原稿ですが、上に述べたような文脈を踏まえつつ、お読みいただけると幸いです。

・加島 卓「ハト=モダンデザインの蒸発:戦後日本の平和ポスターにおける形象の系譜」『原爆を視る1945-1970』(未刊行)目黒区美術館、2011年、https://sites.google.com/site/oxyfunk/public