「生き方モデル」としてのクリエイター

oxyfunk2005-09-19

 最近は「生き方モデル」という言葉が気に入っている。「どんな研究をされているのですか?」と聞かれた時に、「「クリエイター」というアイデンティティの歴史です」というよりは、「クリエイターという「生き方モデル」の変遷を調べています」というほうがピンときてもらえるからだ。
 
 数年前までの自分には「?」な言葉を随分と使うようになった。しかし、その数年前の感覚はいつまでも忘れたくないものである。『世界』や『現代思想』なぞ『小説宝石』と同じなのだ!と手にも取らずに決めつけていた自分を忘れてはならないと思う。
 
 ところで「クリエイター」は、どこまで「生き方モデル」となっているのだろうか。クリエイター本は量産されているし、クリエイター養成のスクールも専門から大学院まで急増している。おそらく「なりたい気持ち」を支援する仕組みはそれなりに整いつつあると思う。しかしながら、「持続させる気持ち」はどうだろうか。
 
 「フリー」であるとかないとかがついてまわる「クリエイター」という仕事には、その裏で当たり前のように「自己責任」を引き受けさせようとするところがある。そして、「好きな仕事」という理由から曖昧な労働条件に緩い対応しかできなくなる面もある。さらに、組織に頼らずに「参入」しやすい分だけ個人的な「離脱」も自由である。こうして、クリエイターという「生き方モデル」は一部の成功者を除いて「持続」しにくくなる。
 
 「生き方モデル」としてのクリエイターが、いつも「成功者」である必要はないと思う。これは「芸術家」タイプにはよいかもしれないが、そもそもみんなが「芸術家」になる必要はない。勝ち組/負け組の二分法に回収しない、「生き方モデル」としてのクリエイターもあっていいはずだ。ビジネス的成功のためだけににクリエイターが語られるのは、もったいない。
 
 ひさしぶりに『MAC POWER』(あの人が気になっているクリエイター特集、2005年10月)というコンピュータ雑誌を購入。2000年代の「クリエイター」像は、1990年代の「MACユーザー」=「クリエイター」を拡大しつつも基本的には引き継いでいるように思える。「1ミリのなかに烏口で何本の線が引けるのか」ではなく、「ディスクのなかにどれだけのデータを入れられるのか」がクリエイターの問題となって久しい。1930年代にカメラが世界を「素材」化したように、1990年代にはコンピュータが世界を「素材」化した。クリエイターは「世界に書き込む者」から「世界を読み込む者」になった、といっても大袈裟ではないだろう。