伊奈信男と「現実」

 カレーを一生懸命に作った井上和香が御飯を炊いていなかったというCMをみては、「ないない」と突っ込んでいたのだが、そういう自分が今晩は炊飯器のスイッチを入れ忘れていた。風邪薬の副作用はこういうところにくるものだろうか、とにかくちゃんとここで回復しておきたい。
 
 今年の新しい収穫の一つは「日本写真史」である。この領域に疎かった僕は、飯沢耕太郎さんを手掛かりに随分といろいろな論考を読んだ。「<感性>の誕生」論文には、教科書っぽいことを書いてしまったが、執筆のなかで刺激を受けたの写真評論家の伊奈信男である。
 
 写真雑誌『光画』の刊行、名取洋之助らとの「日本工房」設立、原弘らとの「中央工房」設立、そして「内閣情報部」の情報官として対外文化宣伝に関わるまで、広告制作者の歴史にも欠かせない人物である。その伊奈信男の代表的な論文に「寫眞に帰れ」がある。これはメディア論としても充分に読み応えのあるものであった。
 
 以下は、印象的だったところ(大島洋編『写真に帰れ:伊奈信男写真論集』平凡社、2005年)。
 

「写真は機械文明の産物である。それは機械による事物の表現である。「機械」によって、「機械」を通して事物を表現するといふことは、写真の制作過程に於て最も重要なる、必要欠くべからざるモメントである。「機械」なくして写真は成立しえない。即ち、写真の特性はその「機械性」にある」(p.22)。

「芸術写真」と絶縁せよ。既成の「芸術」のあらゆる概念を放棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして写真の独自の「機械性」を鋭く認識せよ!新しい芸術としての写真の美学−写真芸術学は、この二つの前提の上に樹立されなくてはならない」(p.24)。

「写真は、絵画的または素描的制作と間違えられてはならない。写真は、その表現手段の使用に関連して、その独自の効果範囲と、その独自の法則をもっている。そしてこの法則を、出来得る限り利用し遂行しなければならない」(p.29)。

「新しい写真家は、かくの如く、新しい写真の本質を理解している。彼等の求めるもの、彼等の表現する所は、各々異なっている。「事象性の性格なる把握」と言い、或いは「生活の記録、人生の報告」と言い、或いはまた「光による造形」という。しかし、すべてが「現実写真(レアール・フォト)」に関する限りに於ては、彼等は究極に於て一致を見る。彼等は古い対象を新しく見る」(p.31)。

と、ここまでは「写真機」というメディアの固有性にどこまでも接近していくのであるが…、

「カメラの「機械性」は「特殊的・写真的」なものの「はじめ」である。しかし写真芸術の「はじめ」ではない。写真芸術のアルファは、カメラの背後にある人間である。しかも社会的存在としての人間−−社会的人間である。新しい視点に立って物象を捕捉し、世界の断面を記録し、報告し、光による造形を行うというも、そのすべては社会的存在としての人間より発動する。社会的必要によって人間が制作活動を行うのである」(p.34)

というように、伊奈は単純な技術還元論者なのではない。機械があるからではなくて、人間が社会的存在だからこそ、「捕捉」「記録」「報告」「造形」がなされるのであって、そして…、

「この場合に写真芸術の内容になり得るものは、その人間の属する社会生活の断面であり、自然世界の一般事象以外にはあり得ない。そして、人間が、主体が、これらの客体をみる時、それはすでに単なる人間の眼をもって見るのではなく、「カメラの眼」をもって見るのである。カメラという表現手段と、光線単色などの表現材料−−すなわち、写真芸術の形式−−をもって、表現し得る範囲において見るのである。かくのごとくして内容が形象化されるためには、一定の必然的な形式を要求するのである。内容と形式は相互に必然的な関係において、互いに他を揚棄しつつ、芸術を完成するのである。写真芸術もまた、このようにして完成されるのである」(pp.34-35)。

と、写真機というメディアの固有性に覚醒した社会的人間こそ「カメラの眼」を持つという。そして、この「カメラの眼」とは内容と形式の弁証法のなかにあるという。

 この時期には、なんでもかんでも弁証法にしてしまうという思想的なお気楽さがある。けれども、「古い対象を新しく見る」ことを「カメラの眼」によって語った伊奈信男は大事な発見をしていたように思う。それは、現実は決してあるがままではなく、これが「現実」であると切り取ったものがそのまま「現実」となってしまうということである。彼の主張した「現実写真」とは、世界の切り取り方が受動的な態度から能動的な態度へと変更しつつあったことを示しているという意味において重要であるように思う。
 
 飯沢耕太郎さんの『増補 都市の視線:日本の写真1920年代-30年代』(平凡社ライブラリー、2005年)には、やがて「「現実写真」は、当初の広がりを失って、ある傾向に限定されはじめている」(p.39)としか述べられていない。伊奈の言説レベルにおいては確かにそうかもしれないが、「現実写真」なるものによって、人々にとっての「現実」がいかに多重化していったのかは見落としてはならないように思う。
 
 写真史は、いずれゆっくり読んでみたい。

写真に帰れ―伊奈信男写真論集

写真に帰れ―伊奈信男写真論集

増補 都市の視線 日本の写真 1920─30年代 (平凡社ライブラリー)

増補 都市の視線 日本の写真 1920─30年代 (平凡社ライブラリー)