欲望の個人主義:ネタとメタの共存

 若者論のお約束として、ネタとメタの共存関係の指摘がある。「アイロニカルな没入」(大澤真幸さん)、「ベタな感動とアイロニカルな感性の共存」(北田暁大さん)などもそうした例だろう。伊奈正人さんの『若者文化のフィールドワーク』(頸草書房、1995年)には、「埋伏の文化」ともある。
 要するに、一方ではのめりこみつつ、他方ではのめりこんでいる自分を観察するような二重の立場のことで、多くのことは「あえて」コミットしているという遡及的な言明により、主体の同一性は分散されたまま維持されていることなのだろう。
 その意味で、文化研究で「サブカルチャー」を記述することには限界があると指摘されて良いと思う。なぜなら、「サブカルチャー」は支配者=大人/服従者=若者という区別を前提にしているところがあり、そこでは「大人ぶる若者」や「若者ぶる大人」といった二重性の戦略を「例外」としてしまうから。
 だから「抵抗」を前提として「サブカルチャー」を記述するのには違和感がある。どう考えてみても「抵抗」するだけが「若者」ではない。あえて「抵抗」しつつも、しっかりと「大人」の居場所を確保していたりするのが「若者」なのではないか。ある主体において「アーティスト」と「サラリーマン」が矛盾なく成立することを考えなくてはならない。そういう二重性がいかに成立しているのかを明らかにすることこそ、「文化研究」の課題ではないか。

「現代の社会状況に対処するには、個人を内側から喰い破って管理する「欲望」を抑圧するのでなく飼い慣らすしくみを考えること、「欲望の個人主義」が支配する社会を内側から喰い破るからくりを考えることが必要になる」(伊奈正人『若者文化のフィールドワーク』頸草書房、1995年、p.282.)。

 資本の論理に「抵抗」する主体を、「芸術家」として記述するものは多い。しかし、この方法で<広告制作者>を記述することはできない。なぜなら、まずもって資本の論理と<広告制作者>は「抵抗」の関係にはなく、またそうすることによって<広告制作者>はどこまでも「芸術家」のなりそこないとしか位置づけられないのだから。
 おそらく必要なのは、資本の論理を「肯定」することによっていかなる「飼い慣らし」が作動しているのかを見極めることだろう。その意味で、<広告制作者>は決して「抵抗」としての「芸術家」ではなく、どこまでも資本とメディアを「肯定」する「送り手」として記述されるべきなのだと思う。
 僕がこだわる「感性」や「センス」という言葉は、個人を鑑賞者とした「芸術家」とは異なる、大衆を鑑賞者とした<広告制作者>の在り方を典型的に示しているように思えてならない。<広告制作者>という名において資本の論理を「肯定」すれば、「アーティスト」と「サラリーマン」は矛盾なく両立する。なぜなら、資本の論理は無限に差異を生産する運動だからである。そこにおいて<広告制作者>は「アーティスト」としてその代替不可能性を維持する必要がなくなり、無限に生産される差異=欲望に準じて、<広告制作者>は「サラリーマン」として自分の使える部分を大衆に切り売りしていけばよいのである。
 <広告制作者>の「感性」や「センス」とは、そこで複製を否定する代替不可能な「アーティスト」としての「内容」においてではなく、複製を肯定する代替可能な「形式」だけを「サラリーマン」として抜き取る能力に定位して語られているのではないだろうか。


 作田啓一さん、見田宗介さん、井上俊さんらがいた「相関社会科学」の時代には、どのような議論がされていたのだろうか…。また、伊奈正人さんの『サブカルチャー社会学』(世界思想社、1999年)は未読なので、伊奈さんのいう「サブカルチャー」とはもしかしたら見解が違うかもしれません。