〈伝達〉のいかがわしさ

 それなりに知られたコマーシャルクリエイターのお話を聞く機会があった。そこで改めて知ったのは、次の二つに聴衆の関心は集中するということである。

 一つ目は、「なぜ、○○を起用したのか?」や「どうして、こういう展開なのか」といった、コマーシャルにおける表象の意図についてである。要するに、コマーシャルを「作品」と捉え、またクリエイターを「作者」と捉え、制作の裏話を教えて下さいという話である。

 二つ目は、「結局、いくらお金をかけたのか?」や「どれだけ売り上げに貢献したのか?」といった、コマーシャルにおける経済的な背景と効果についてである。要するに、コマーシャルを「投資」と捉え、またクリエイターを「受託者」と捉え、制作の裏話を教えて下さいという話である。

 こうしてみれば、所謂「広告人は自慢ばかりをする」といった語り口そのものが、実は私たち自身の広告への狭い関心に由来しているということがよくわかる。つまり私たち自身が、〈伝達〉に伴う「正義」や「正当性」を抱えたがる新聞や放送のように広告を捉えるつもりが殆どないからこそ(また、その必要があるのかも不明であり)、「本当のところはどうなの?」というように、素朴に裏話的な関心へと水路付けられていく。本気かどうかはともかく、「正義」や「正当性」が解除された〈伝達〉には、「魔術のトリックを明かせ!」といった程度の関心しか生まれないのである。

 だから「広告を新聞や放送と同じように扱え!」と、言いたいのではない。むしろ広告に対して上のような関心しか持てない限りは、クリエイターにどれだけ話を聞いたとしても、「広告人は自慢話ばかりする」といった予見を上書き保存するだけだということである。またそうした関心と反応の循環こそ、〈伝達〉のいかがわしさを綺麗にトレースしてしまうということである。さらに言えば、そのいかがわしさは「正義」や「正当性」によって、どれほど隠せるものなのかということでもある。

 勿論、おしゃべりで自慢話が多い方もいらっしゃる。しかしそうした所作そのものが、私たち自身の浅さに由来している可能性が高いということは、知っておいてもよいのではないか。


NHK連続テレビ小説『だんだん』(2008.10〜2009.3)は、捨てキャラが多すぎたと思う。主役であるはずの「めぐみ」と「のぞみ」は、芸能事務所のマネージャーから医者へと転身した「石橋さん」の自分探しに振り回され、いつの間にか脇役になってしまったし(笑)。ドラマ内の時間進行も雜で殆ど褒めるところのない脚本だったが、それだからこそ、「忠」役の吉田栄作の演技が上手く見えたのかもしれない。