「近代の超克」と不思議な確信
僕は漢字を読むのが苦手だ。今でもトンデモな読み方を堂々としていることが少なくない。「破綻」を「はじょう」と読んでいたこともある(「はたん」という言葉を知りながらも!)。しかも、これはATOKで丁寧に変換までしてくれる(「誤読」という合図はでるが)。これだから、なかなか直らない。
「超克」=「ちょうこく」という言葉も数年前まではそうだった。そりゃ、そうだ。デザイナーとして生活していた頃に、「超克」と出逢うシーンなどまずないのだがら。しかしながら、戦時期のデザイナーにとっては、そうでもなかったのかもしれない。
所謂「近代の超克」は、文学に限らない表現者に横断的な問題系。それがいわれた当時に今泉武治と三木清が出会っているのは、どうにも偶然には思えない。これをあと三ヶ月でどこまで突き詰められるのかが一つの挑戦になる。そんなかんなで建築や文学はどうなのかと思って以下を読む。
「自分としては、文学における柄谷行人氏の『日本近代文学の起源』やすが秀美氏の『日本近代文学の<誕生>』、美術における北沢憲昭氏の『眼の神殿』や佐藤道信氏の『<日本美術>誕生』のようなものを書くつもりで明治の資料を辿っていた…」(八束はじめ『思想としての日本近代建築』、岩波書店、2005年、p.625)。
「…注目すべきことは、彼ら(大江健三郎、古井由吉、中上健次)のいずれもが、従来の主体という考え方とはへだたったところに新たな主体を築こうとしているように思われることだ。そこではいわゆる近代的個人を前提とする主体概念が拭い去られようとしている」(三浦雅士『主体の変容』、中公文庫、1988年、p.16)。
これだけでは、殆ど何も書いたことにはならないが、建築家でもなく作家でもなく、「やはり「広告制作者」だからこそ言えそうなことがあるな」と不思議な確信を手にいれた。「ポストモダン」が賑やかな頃に、広告制作者が取りざたされ、また「近代の超克」が再び言われるようになったのは決して偶然ではないはずだ。そこで広告制作者は「ポストモダン」であるかどうかではなく、いかなる「モダン」なのかを考えなくてならないだろう。「モダン」から「ポストモダン」へというまた別の“大きな物語”は、「<広告制作者>の歴史社会学」によって果たしてどこまで揺さぶることができるだろうか。
とにかく、頑張ろう。
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