「注意する/注意される主体」としての近代

 年に何回か「出逢ってしまいましたかぁ!」と思う本がある。そういう本に限って、とんでもなく分厚く、とんでもなく高い。しかし買わずにはいられない、いつ読み終わるのはわからないけれども。クレーリーの『知覚の宙づり:注意・スペクタクル・近代文化』(平凡社、2005年)は、ルーマンの『社会の芸術』(法政大学出版局、2004年)以来の衝撃だ。読めるのか?、いや読んでやるっ。
 
 「感性」とか「センス」にこだわる僕は、ここ半年位前から「知覚」という言葉を使うようになっていた。<内容>が何であれ、<形式>において人間を揺さぶり続ける広告は、本質的に「知覚」のメディアであるとしか言いようがないと考えるようになったからである。広告が「広告」として理解されるためには、「これは広告でっせ」と広告であることを私たちに訴えかけてくるメタ・メッセージがすべてなのである。それがなければ「広告」は成立しない。要するに、広告にとってまず重要なのは、それが広告であるかないかを私たちに理解させる知覚的なメッセージなのである。
 
 とはいえ、広告の歴史は「眼」を中心に書かれていることが少なくない。どんなポスターがあったのか、どんなCMがあったのか、そこには誰が出ていたのか…等々。しかし、広告とは、紙やテレビなどの平面だけに埋め込まれるものではなく、屋外広告など空間に埋め込まれるものである。鰻の匂い、香付きの紙、豆腐屋のラッパなどなど、広告の多くは「眼」には回収されない知覚のメディアである。広告の歴史が知覚の歴史でありながら、「眼」の歴史としてしか語られてきていないことは、大きな不満であると同時にその難しさを感じていた。そんなこんなで、クレーリーを発見。

「私は、「眼差し」とか「観察」という視覚的な概念がもっぱらそれ自体として、歴史的な説明に値する対象であると信じてはいない。問題の多い用語である「知覚」ということばを私が使うのは、まず第一に、視覚という一義的な様態を超える観点から、つまり聴覚と触覚、そしてさらに重要なことには、還元しがたくも混在した様態の観点から、主体=主題を指し示そうとするからである」(p.12)。

 クレーリーが世界を知覚する言葉として「注意」に注目したことの意味は大きい。それは、単純に「見る主体/見られる主体」=「近代的主体」の説明モデルを脱臼する力を持っている。近代的主体は「注意する/注意される」関係のなかで成立したといったほうが、アナール的な「におい」などの感性の歴史も無理なく一緒によく理解できるのではないだろうか。
 
 クレーリーのいう「注意」とは、複雑な知覚を単純化しないままに説明する概念として力強い。それに従い、広告の近代も「注意する/注意される」という知覚の総合性と散漫さの関係のなかで成立したものである、ということもできるだろう。将来に広告がどのような形をとったにしても、人間の「注意」を活動の準拠点とした広告制作者の「感性」や「センス」はいつまでも語られることでしょう。所謂「AIDMA」法則の「A」は、「Attention」だったし…。中井正一を読んでいたところでしたが、いよいよ面白くなってきた…。

※追記:訳者あとがきと同じく、「それにしても、どうして画家なのか、絵画なのか」と思う。クレーリーの専門はともかく、複製芸術のほうが大衆との関係で説明的だと思うのだが…。

※再追記:id:photographology:20050830さん経由でクレーリーへのコメントを知る。
http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/batchencrary.htm

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化

知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化