内田樹「生者は儀礼決められぬ」『朝日新聞』(2005年8月30日)

 内田さん曰く、首相の「靖国参拝」問題において、賛成派も反対派も「「死者は正しく祀られなければ、生者に災いをなす」という点については合意が成り立っている」という。確かに「参拝」は生存する者のためにも語られている面が強いし、悲しいことに「死者は言葉をもたない」のだから、私たちの呼びかけは私たち自身の物語においてしか成立できない。生存する誰もが「正しい」参拝の認定や完全な呼びかけを達成することができないということこそ、問題の核心の一つなのだと思う。

「死者は言葉を持たず、死者は自分に代わって語られる言葉の取り消しを求める権利を与えられていない。死者が何を求めているのか、「死者のために/死者に代わって」何をなすべきか「私は知っている」と主張する傲慢な祭司たちをおしとどめること。「死者の無権利」への気遣いと畏れをどういうかたちに表してゆくべきなのか「その答えを私は知らない」という無能のうちに踏みとどまること。」

 
 「死」は語り得ないからこそ、語られ続けなくてはならない。だからこそ、何のために「死」を語るのかにも耳を澄まさなければならない。それでも、「死」を言説として眺める時の扱い方は難しい。私たちは「死」から逃れることができないからこそ、どうしようもなく「死」と向き合っていかなくてはならない。生きていくためには「死」は語られなくてはならないし、どんなに「理由なき死」にも物語を与えられる自由はある。言説としての「死」はあるだろうが、それを語る人の代替不可能な想いの居場所をどうするのかという難しさはある。「死」はどこまで言説として扱えるものなのだろうか…。