政治思想史と歴史社会学

 洗濯機が壊れた。「バッチーン」と大きな音を立ててから、近所の犬は吠えていた。何かしらの金属部品が切れたのか、その後は信じられない程の騒音を出し続け、脱水機能は完全にアウト。運悪く、布団を洗っていたので、水をたっぷり吸ったそれをハンドパワー脱水をすることになり、筋肉痛(当然)。そして、思わぬ出費(泣)。頑張ろう。
 
 日本政治思想史が専門の仲間と再会。社会学やメディア論への距離感を素直に語ってもらえたので、現在の自分の立ち位置を相対化できた。研究対象としての「近代」は、論者の数だけ存在するだろうし、それをいつからどのように見るのかという遡及的な言明の差異が「思想史」と「(歴史の)社会学」の学問的カテゴリーの境界線のようにすら思える。
 
 この違いは、歴史をどこまで遡るのかという点によく現れている。社会学的な記述を目指そうとする場合において、「近代」を明治や大正から取り扱うものが少なくないように思うが、政治思想史の場合、江戸であり、なかでも「元禄」である。「昭和元禄」という言葉もある位だし、直感的には、大きな戦もなくなり、その記憶も風化されつつあった「江戸の元禄」を、「近代」の問題の起源の一つとして捉えることはできるように思える。
 
 どうも腑に落ちない点もある。それは江戸の末期の「以前」と「以後」では、空間や他者への想像力が大きく異なるようにも思うからだ。勿論、海の民の存在もあっただろうし、朝鮮からの使節団もあり、長崎での交易も考えれば、他国への回路はそれなりには開かれていたと思う。しかし、人々にとって「どこまで移動可能なのか」、そして「誰と出会う可能性があるのか」という想像力は、「鎖国」的状況と「開国」しつつある状況においては異なるのではないかという点も見逃し難い。
 
 「開国」決定論は回避しつつ、「開国」を相対化しながら、「近代」をどこまで/どの立場から語れるのかが課題なのだろう。誰との/何との関係で「近代」を語るのかという問題が、「政治思想史」と「(歴史の)社会学」との境界線の一つになっているように思った(ほとんど雑駁な印象ですが)。
 
 やっぱり丸山真男でしょうかと思いつつ、「批評化した社会学」(東浩紀)を手に取る私。
 

社会学は、過去十年ほどで急速に影響力を増した。一九九〇年代は社会学と心理学の時代と言われる。冷戦構造の崩壊のあと、文系の研究者には、大きな世界観や体系的理論の追求ではなく、多様な問題を分析し、処方箋を用意するエンジニア的な役割が求められるようになった。社会学と心理学は、その期待にもっとも近い学問だと考えられ、積極的に受容された。結果として、二〇〇〇年代のいま、思想の風景は社会学と心理学の言葉のほぼ支配されている。一九六〇年代の学生が「資本」を語り(マルクス主義)、一九八〇年代の学生が「記号」を語ったように(ポストモダニズム)、二〇〇〇年代の学士繪は「社会」と「心」について語る。 そのような状況のなか、社会学者には、いまや、特定の学の専門家というよりも、新しい総合教養人としての役割が期待されている」(東浩紀編『波状言論S改社会学・メタゲーム・自由』、青土社、2005年、p.7)。

 
 誰が「総合教養人」であるかどうかはともかく(笑)、文学や政治学にコミットした「総合教養人」的な在り方を言い続けることが困難になって、社会学や心理学な言説が受容されている面はあるだろう。ニューアカ時代に学生をしていた広告人にインタビューした時、「ねぇ、今、思想では誰が流行なの?」と真顔で聞かれて戸惑ったことを思い出した。

日本政治思想史研究

日本政治思想史研究