「オリエンタリズム」を笑う日

 留学生と食事をした時のこと。日本の近世と西洋の近代の比較思想史に関心のある彼は、研究の傍らで陶芸にも熱心で、柳宗悦浜田庄司を尊敬しているという。彼のように陶芸にはまる留学生は今までに何人か会ってきているので、「どうしてなのかな?」と素朴に聞いてみたところ、「これはね、オリエンタリズムじゃないよ。でもね、いいものはいいんだよ…」とのこと。
 
 批評言語の息苦しさはこういうところにある。批評言語を知ってしまうと、なにかしらの留保なくして、素朴な印象を語れない時がある。不可視なものを可視化する批評言語の可能性自体は疑わないだが、それでも日常生活において「……。」としか反応のしようがないことも事実である。
 
 批評言語の居場所は、それによって指摘することで大きな解決がされるわけでもないのだが、無視するわけにもいかないところにある。 ワールドカップの応援と「ナショナリズム」、異性への想いと「フェミニズム」、アジアの仲間と「ポストコロニアリズム」。その気になれば、日常の多くのことがネタとしてアルゴリズム化した天秤にかけられてしまう批評言語の世界。安易に語ることも、無視することもできないなかで、留保に留保を重ねざるをえない批評言語は時にして研究者を苦しめているとしか思えない。
 
 これを「職業病だよ」という仲間もいる。だから、研究者は人の話をよく聞かざるをえないのだろう。陶芸が好きなことを「オリエンタリズムとはうまくいったもんだよねー、確かにそういうところあるかもしれないし、今のところはそれ以外に説明する言葉もないかもなー」と言ったほうが愉快なのに、それでも批評言語の使用にあたっては奇妙な倫理ゲームが作動してしまうのが痛いところだ。
 
 どんな立場であれ世界の再生産から逃れられない以上、ある特定の批評言語を支配的にしないことが批評言語の課題。とっても自己言及的だけど、それが批評言語なのではないか。「オリエンタリズム」を笑う日はいつくるか?さぁ、今日も頑張ろう。