「正しいデザイン」という欲望

 ひらめきとは先輩方の思考の中に埋め込まれているものである。それは、僕の思考を閉じこめると同時に切り開く。三木清の「構想力」や中井正一の「集団美」はそういう意味で発見だったし、柏木博さんの『近代日本の産業デザイン思想』(晶文社、1979年)の「機能」と「形態」の話にも大きな刺激を受けた。
 ここ暫くの間、「なぜ形式主義は内容主義に転化してしまうのか」が問いだった。デザインが「脱−芸術」という意味で「内容主義」から「形式主義」への移行だったとしても、デザインそのものがなぜ作家主義へ向かい、なぜ「形式主義」のまま「内容主義」的になっていくのかがよく分からなかった。
 これはおそらく、「デザイナーによる芸術家への劣等感」というだけでは説明できない。まずは、「自然に」こうした思考をしてしまうことを問うべきだろう。これは近代的な価値観に支えられた素朴な発想であるように思える。芸術を上部に、デザインを下部に位置づけている限り、デザインは芸術との関係でしか説明されず、デザインそのものの論理が見えてこない。
 そこで、デザインがその論理的遂行においてどのような矛盾を見つけたのかと考えてみたらどうだろう。つまり、「内容」というよりは「形式」を追求することで成立していたデザインが、やがて「形式」の追求自体を自己目的化してしまい、そこに「あるべき形式」(内容主義的な形式)と「あってはならない形式」(形式主義的な形式)という道徳的判断をするようになってしまったという矛盾である。これが、形式主義から内容主義に転化した理由なのではないだろうか。
 この一次レベルでの区別(内容主義/形式主義)と二次レベルでの区別(形式主義の内容主義/形式主義形式主義)とを混同すると、「アートもデザインも結局は同じなんでしょ?」という単純な議論に回収されてしまうだろう。
 資本の論理をもって成立するデザインはひたすら差異化が可能であり、そこに「正しさ」という「意味」が挿入される必要はなかった。にもかかわらず、内容主義的な近代の論理は、「機能」という名において、「正しいデザイン」という「意味」を与えたくなってしまうのである。
 こうしてみれば、デザインは「反−近代」であるにも関わらず、どこまでも「近代」的な心性と欲望に飼い慣らされることで、「芸術」としての居場所を与えられてしまうのである。デザインはアートではない。しかし、近代の論理がデザインの自律を放っておけずにアートとして、またはその従属として扱ってしまうのである。
 こうした意味で、デザインを問うことは近代を問うことである。僕が「広告制作者」にこだわる理由はここにある。
 ※追記
 『近代日本の産業デザイン思想』は、どこか読みにくい。本書には、全体を覆う「著者の怒り」のようなものを感じる。この読みにくさは、細川周平さんの『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社、1981年)に近い…。時代の空気か、いやそれとも研究者の世代論的葛藤なのか。今度逢ったら、聞いてみたい。

近代日本の産業デザイン思想

近代日本の産業デザイン思想