自分の発言には責任を持つべきである

 暫く前に「自分の発言には責任を持つべきである」とはどういうことなのかと聞かれ、それ以来「責任」について少しでもまとめられないものかと考えていた。
 
 なぜ発言の「責任」なのかと言えば、発言の「自由」が与えられているからである。様々な発想とあらゆる言語のなかから自分が思うように選択して発言できる自由を持っているということは、その選択の理由が自分以外では説明不可能だということである(他者がそれを察することはあっても)。この意味で、「責任」は自由な選択の結果に対して問われているというべきだろう。
 
 ここでいう「責任」とは、何らかの判断を押しつけたり、明確な態度を求めたりするようなものではなく、「もう少し教えてくれませんか」という声に応答すべきという程度のことである。だから、対話の継続性さえ担保されていれば、発言があらかじめしっかりまとまっていなくいてもいい(すべての発言に強い動機や明確な意図があるとは思えない)。従って「自分の発言には責任を持つべきである」を単純化してみれば、「話す分だけ耳を澄ませ」ということになるだろう。
 
 こうした態度を求めることは、「あなた」を認めることと繋がっている。だから「責任」を求めるということは、「あなた」という個人を否定することではない。わたしは、自由な選択をした「あなた」でしか応答できない声に耳を澄ましているのである(明確でなくてもいい、コミュニケーションの接続が担保されていればいい)。「自分の発言には責任を持つべきである」とは、あなたの発言に対して「責任」を引き受けられるのは「あなた」しかいないのだからどうかどうかお願いします、ということである。
 
 この「自分の発言には責任を持つべきである」という呼びかけ自体が、言語を持つ者からそうでない者への「暴力」や「抑圧」であるという考え方もあるだろう。しかし、ここでは「研究仲間」という共同性のなかで思考したことを前提としておきたい。おそらく、この責任と応答の関係は、それをどういった共同性のなかで成立させるのかという問題になるのだろう。また過剰な期待は、責任と応答の間で揺らぐ姿を炙り出すゲームにすらなってしまう。大川正彦『正義』(岩波書店、1999年)を再読してみて、思いつくことは多い。『責任と正義』を(いつか)読む前のメモとして…。

正義 (思考のフロンティア)

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