「不思議な拍手」が起きる時

 シンポジウムや公開討論などの質疑応答で「不思議な拍手」が起きる時がある。例えば、権力者に対する皮肉めいた発言がフロアから出た時。正直なところ、僕はこれが苦手である。そういう場で「対話」のために声を挙げるのと、「主張」のために声を挙げるのは、ちょっと異なるのではないかと思う。
 とにかく「批判」したくてしょうがない人がいるのはわからなくもないが、その姿勢には苛つかされる時もある。言いたいことは言ったほうがいい。でもそれと同時に、“今、私たちはどういうことを話そうとしているののか”に耳を澄ますべきではないか。反省のチャンスなき発言はちょっと厳しいし、それを「拍手」で支えることは、批判すべき対象と同じ構造にあることを示してしまうだけだと思う。
 ポリティカル・コレクトをめぐる遂行的矛盾探しゲーム、発話の立ち位置をめぐる議論。「良心」が意図せざる排斥に短絡してしまう可能性は、「自覚」によって回避するしかない。あえて「プロレス」をする人のための啓蒙的なエッセイとして、仲正昌樹『なぜ「話」は通じないのか:コミュニケーションの不自由論』(晶文社、2005年)を読んだ。耳を澄ましつつ、声を掛け続けるためのレッスンか。

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論