*[critique]終わりなき「教育」、とりあえず「学習」?

 「教育が問題だ!」とは、誰でもいえる。みんながそれを経験してきているからだ。「教育を改善すべきだ!」も、誰でもいえる。みんながみんな先生になる必要はないからだ。「教育」をめぐる言語空間は、どうしようもなくぎこちない。がゆえか、「教育」といった瞬間に煙たがる人すらいる。きっと、思い出さなくてもいい個人的なことを思い出してしまうのだろう。僕にもそういうところがなくはないが、それでも「教育」と向き合っていかなくてはならないと思う。
 廣田照幸さん『教育不信と教育依存の時代』(紀伊国屋書店、2005年)は、「装置」としての学校において「「教育になしうること」の不完全性」を知るための講演集である。要するに、教育の悪口を言いながらも、教育に全てを任せようとする「虚像としての「現代教育像」」こそ、問題なのである。実体なき理想像としてのそれは、永遠に辿り着かないままに個人的な経験に基づいた批判を受け入れなくてはならなくなってしまっている。だからこそ、「教育には何ができないか」を知らなくてならない。終わりなき「別の教育」探しゲームから抜け出さなくてはならない。
 ところで、アリエスの『<子供>の誕生』(みすず書房、1980年)には、近代「教育」の誕生が「魂」という内面の開発と管理の試行錯誤の結果として描かれている。子供は“危ない存在”としての「弱さ」を持っていなくてはならず、大人はその「監督者」でなくてはならない。近代においては、子供の内面の管理こそ「教育」であり、そのための装置として「学校」が必要だった。これが所謂「規律訓練社会」のモデルで、国民国家における「同質性」を前提にしている。
 しかし、グローバル化しつつある現在においては、もはや「魂」=内面の管理は有効ではなくなってしまったように思う。移動が限定されている国民国家的状況においては“危ない存在”を更正する内面への働きかけとしての「教育」は有効かもしれないが、移動がかつてよりも限定されないグローバルな状況においてはこうした方法はコスト上困難であり、“誰もが潜在的には危ない存在”という想定をせざるを得ないところがある。するとなると、規律管理としての「教育」は、そのエージェントを国民国家とは異なる存在に任せなくてならない点が生じてくる。
 そのエージェントが「グローバル市場経済」である場合(公共空間の私有化)、私たちを管理する権力もまたこれに対応しなくてはならず、管理の対象は「魂」という内面から「移動」という外面へと移行せざるを得ない面が出てくる。すると、もはや“危ない存在”なのかどうかが問題なのではなく、“危ない存在”と考えられてもおかしくない場所にいるかどうかが問題となってしまう。そこで教育は“何を学ぶべきか”という内面管理から、公立であれ私立であれ“どこで学んでいるのか”という外面管理の問題に横滑りしてしまう(学校の自由選択制度!)。所謂「監視社会」モデルは、国民国家的な「教育」の終焉を示唆しているようだ。
 この「規律訓練社会」から「監視社会」への移行に、「教育」から「学習」への移行を見ることができそうだ。これは、代替不可能な教育内容(特定の内容が教えられなくてはならない)から代替可能な学習内容(「学ぶ」という形式が共有されていれば良い)への移行であり、東浩紀さんのいう「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」とシンクロしてくる点である。つまり、「教育」が「学習」として積極的に捉え直されるのは、身体の管理が「監視社会的」な状況になったことと無関係ではないと思うのだ。それは「環境」が管理の対象になったことを意味しているわけで、そこでは「なにかを教育する=what」の困難をある程度認め、「いかに学習してもらうか=how」を問題とせざるを得ない。身体の管理から空間の管理へ。
 いま、教育学者が「学習環境デザイン」を構想する際の「環境」とは一体何を意味するのか。ピアジェヴィゴツキーのいう「環境」と、ここまでの「環境」とはどういう関係にあるのか。もう一度、山内祐平さんに聴いてみることにしよう。終わりなき「別の教育」探しゲームは、とりあえず「学習」しようゲームになりつつあるかもしれない。では、そこでいう「環境」の管理者は誰から誰へと移動したのか?していないのか?
 ※追記
 佐藤可士和さんが「状況をデザインする」ということの意味も同様の枠組みにある気がしてならない。管理やデザインの対象は、個別具体的な対象から空間的な拡大を遂げつつあるのではないか。

教育不信と教育依存の時代

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〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

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「未来の学び」をデザインする―空間・活動・共同体

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