「マスメディア」を語る手つき

 ある国立大学で先輩と一緒に担当していた「情報と社会」が終了。科目「情報」の教員免許取得を目指す学生を対象に、人文的な「メディア論」を軸にマスメディア・デジタルメディア・モバイルメディアの講義とワークショップを行い、最終回はレポートとして「メディア・リテラシー」の授業案をその場で考えてもらい提出してもらった(彼ら自身がやがて教師となるので)。
 ある程度予想はしていたけれども、レポートから判断した限りでは、「ステレオタイプ」などに焦点を当てた「マスメディア・リテラシー」は、彼ら彼女らにとって退屈な話であったと思う。「マスメディア≠現実」は改めて確認するようなものではなさそうだし、ニュースを見る「私」はかなり相対化されている。
 「マスメディア・リテラシー」にこだわるのなら、ニュース的現実(真面目メディア)だけでなく、バラエティ的現実(不真面目メディア)における「私」を同じ比重で扱うべきだと思う。そうでないと、「ニュースは真面目だから問題にすべきである」と「バラエティは不真面目だから問題にしなくていい」という、それこそテレビそのものへの「ステレオタイプ」を強化してしまわないか。ニュースもバラエティも「あえて」同じように扱う器用な手付きが、「マスメディア・リテラシー」には必要ではないだろうか。
 「メディア」を信じてもらうためのリテラシーではなく、「メディア」にはできないことが少なくないことを知ってもらうリテラシーニヒリズムを回避しつつ、それでも本当にどうしようもなく「メディア」と向き合い続けなくてはならないことを丁寧に語っていくことが「メディア論」の課題だと思う。