ユーザビリティーと政治

oxyfunk2004-03-20

 よーくみてみよう。もちろん都立学校の卒業式における旗の位置や歌の唄い方などめぐっていろいろな立場から声があがっているのは知っている。儀礼としての卒業証書授与をめぐって「何が適切なのか」を議論するつもりはないし、それは現在の僕の出来るところでもない。だがら誰かを仮想敵にすえて、スロープを取り付けるなとか、税金の無駄使いだとかを言うつもりもないし、「全ての都立学校が壇上で卒業証書を受け取るように」という都の意向を支持するつもりもない。
 確かにスロープの設置そのものが壇上に対して何らかの意味を生みだしてしまうように思えるところがある。それでも、ある都議会議員のレポート写真から判断すると「設置場所をめぐる政治」は事前に回避されていたとも考えられる。それは苦肉の策というよりは、登りと下りを別ルートにするプラクティカルな工夫といえるだろう(自分の出身校を思い出してみよう)。
 不思議なのはこの議員による見学の時と卒業式当日の設置場所が異なることである。設置当事者にはそれなりの理由はあるかもしれない。それでもこのように配置することで過剰な読み込みを介入させてしまう隙間をつくってしまっていたのではないだろうかと思う。
 最初に「よーくみてみよう」といったのは上のことだけを言いたかったからではない。儀式の空間とはそもそも政治の空間なのだ。だから何がどこに配置されるのかと言うこと自体が政治的な議論の対象になる。ここで注目したいのは「何がどこに配置されるのか」と同時に「配置されたものがどのように演出されているのか」という<表象>の問題である。
 スロープの手摺りをみてみよう。手摺りをつけるなといいたいんじゃない。そのニーズはあってもいい。それでもその不思議な色と形に「?」なのである。これではまるで神社の手摺りじゃないですかぁ。先のレポート写真をみればわかるように当初は用意されていなかった。もう一度言うけれども、設置する事自体に問題があるんじゃない。それでも、なんで朱色の「高欄」(神社建築用語)を模したものでなければはならなかったのかということは問われてもよいだろう。こんなに立派なものでなく、シンプルな手摺りであっても良かったろうに。これを「演出」として捉える人がいるかもしれない。その場合、何のために何を想定した演出なのだろう。これもまた過剰な読み込みを介入させてしまう隙間をつくってしまっているのではないか。
 「設置」を問題にすることで見えなくなってしまう「配置」や「表象」の問題。儀式をめぐって正統な読みは存在しないだろう。だからこそ、過剰な読み込みを演出・誘因しているようにみえる者とどのように向き合うのか、それに声をかける側も自覚的になってもよいと思う。そうすることで「設置する/しない」といった議論ではなく、出席者にとって必要な設備とはどのようなものかというような議論ができるのではないか。もちろんユーザビリティーが政治から自律しているとは思わない。それでもユーザー不在のユーザビリティー議論は政治の議論でしかないのだろう。
※参考
・ある都議会議員のレポート写真
http://www.gyoukaku110ban.jp/diary/back3-m3w1.html
・家屋評価用語集
http://www.recpas.or.jp/jigyo/report_web/html_0022/hon022_034.htm
・写真は朝日新聞2004年3月19日夕刊19面から。