*[critique]ネット世論とメタデータ

 「世論」すら怪しいのに、「ネット世論」なんて本当にあるのかな。ブログ空間におけるメタデータの相互交換の量的な多さを見ると、そう思わずにはいられない。ベタな書き込みをする人よりも、それらをメタに収集してまとめている人のほうが、情報=ネタとして充実しているように見えてしまうのはとても奇妙なことだ。もし「ネット世論」に固有性があるとしたら、それはこうしたネタのメタ化、すなわちデータの収集・蓄積・検索能力に支えられているのだろう。
 
 これを「象徴的貧困」として捉えるなら、「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態」とも考えられる(「思想の言葉で読む21世紀論」朝日新聞、2006年2月14日夕刊)。情報として多様な選択肢が与えられているがゆえに、単純な選択がなされていくという逆説のことである。スティグレールはこの象徴的貧困に「自己の喪失、個体化の衰退」を見ている(ベルナール・スティグレール『象徴の貧困』、新評論、2006年)。
 
 しかしネットが敵視する(?)マスメディアにおいても、上述のことは「麻酔的悪作用」として1949年に指摘されている。

「二〇世紀のアメリカ人は、メディアが流し出すもののおかげで“世界の動きに歩調を合わせて”いられるのだとされている。ところが一方、コミュニケーションがこのようにあまりに大量に供給されると、人びとは社会の諸問題について表面的な関心しか起こさなくなり、そのうわすべりの関心のかげで、大衆は無感動になっている、とも考えられるのである。
 情報の洪水にさらされると、ふつうの読者や聴取者は、それによって刺激を受けるよりも、麻痺させられてしまう。情報を読んだり聞いたりする時間が多くなればなるほど、組織的な行動に割当てられる時間は少なくなる。人びとはさまざまな問題について記事を読む。それについてどんな行動がとられるべきか論じることもあるだろう。しかし、こうしたことは単なる知識になってしまって、組織的な社会的行動との関係はうすくなり、行動の原動力にならない。社会のさまざまな問題について関心を持たされ、知識を与えられた市民は、自分がそのように関心をもち、知識を持つだけの、高い地位にあるということだけに満足してしまって、彼が実際にはなんの決定もせず、なんの行動もしていないことは、考えようとしない。要するに、彼は現実の政治の世界との二次的な接触、つまりそれについて読んだり、聞いたり、考えたりすることを、実際に行動することの代用品にしてしまうのである。彼は、その日その日の問題について知ることが、すなわち、それについてなにかをすることなのだ、勘違いするようになる。彼にしてみれば、社会的良心に恥じるようなことはいささかもない。彼は関心をもっている。知識ももっている。今後どうしたらいいかについても、あらゆる種類の考え方をもっている……。」(ポール・F・ラザーズフェルド/ロバート・K・マートン「マス・コミュニケーション、大衆の趣味、組織的な社会的行動」、W・シュラム編『マス・コミュニケーション』、東京創元社、1954年、pp.281-282)

 この「麻酔的悪作用」が重要なのは、それが事前に意図された結果ではないということである。20世紀半ばのアメリカにおいて、マス・メディアは多くの人びとに入手可能な情報を増大させた。しかしその意図とはまったく関係なく、マス・メディアが与える情報が増えれば増えるほど、人びとは能動的な政治参加から距離を取るようになり、知識のみを蓄える受動的な態度を取るようになったのである。「象徴的貧困」と「麻酔的悪作用」は、対象とする時代やメディアが異なるにしても、その意図せざる結果としての“脱−政治化”を共に見通している点において同類の意見ともいえよう。
 
 こうしてみると、メタデータの収集・蓄積・検索能力に支えられる「ネット世論」とは、いかなる意味において“政治的”なのであろうか。「ネット世論」とは政治的なコミットメントを回避すればするほど、その存在がいきいきするものなのではないか。もちろん、言論の場が限定されたマスメディアを揺るがす方法としての「ネット世論」もあるし、メタデータの集積だけが「ネット世論」ではない。しかしながら、次々と発言していくことよりも、自らのデータベースを充実させていくことが魅力的に思えてしまうこと、そしてそれが政治的決定の先送りへの加担となってしてしまうこと、これらが「ネット世論」の魅力と魔力であるようにも思う。

象徴の貧困〈1〉ハイパーインダストリアル時代

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