*[critique]デザイン批判の困難
ネットに詳しい人が編集部に少ないということで話題になってしまった「オーマイニュース!」。そのアクセスランキングの上位に、岩月美知枝という市民記者による「明治学院大の新ロゴに潜む意味 「有名デザイナー」の作品とは何なのか」(http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000535)という記事があり、かなりコメントもついている。デザイン批判の困難を象徴しているので、ちょっと読んでみよう。
明治学院大学は2005年1月に新しいロゴマークとスクールカラーを決定した。これらを制作したのは佐藤可士和(アートディレクター)で、彼によれば今回のロゴマークは「明治学院大学が本来持っているイメージである、知的で奥ゆかしく、安易に流行に流されない心の強さを、 品格と優しさを感じさせながらも、斬新で個性的な「MG」の文字を中心」に表現したものである(http://www.meijigakuin.ac.jp/branding_project/logoinfo1.html)。Ohmynewsの岩月記者は、これに対して「どこか見覚えがあった、初めて見るものなのに…」と切り込んでいく。
「理由はすぐに判明した。
ロゴに使用されているフォントが、六本木ヒルズのロゴデザインや、デヴィッド・ボウイのCDジャケットのデザインなどで知られる在ロンドンのグラフィックデザイナー、ジョナサン・バーンブルック氏が1992年に開発した、Manson(マンソン)という名のフォントなのだ。
このMansonフォントは、じつは米国犯罪史上に残る空前の猟奇連続殺人鬼チャールズ・マンソン(1969年妊娠中の女優シャロン・テートを殺害したことで有名)にちなんで、名付けられたものだ。
…(中略)…。
この事実を大学側は知っているのかと思い、明治学院大学の広報課に電話で問い合わせると、あっさり、「ロゴに使用しているのは市販のメイソンというフォントです」と返答があった。しかし、メイソンがマンソンにちなんでいることまでは知らない様子だった。
名前の由来を知っていたら、大学のブランドのイメージを大きく左右するロゴデザインに、このフォントを使用しただろうか。また佐藤可士和氏はフォントの来歴まで知ったうえで、「自分の作品」に全面的に使用しただろうか?」(岩月美知枝「明治学院大の新ロゴに潜む意味 「有名デザイナー」の作品とは何なのか」(http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000535))
要するに、岩月記者の「見覚え」は、ロゴマークの字形=フォントに由来するものである。そして、そのフォントそのものを制作したのはジョナサン・バーンブルックであり(佐藤可士和ではない)、なおかつフォント名の由来が殺人鬼にあるというわけだ。そこで岩月記者は、「名前の由来」「フォントの来歴」がどこまで当事者(明治学院大学)に自覚されていたのかを問い合わせたのだ。
ここで注意すべきは、記者自身の疑問が「見覚え」に始まっているにもかかわらず、それ以後の展開が二つの方向に分散していることである。一つには、ロゴマークにおける「見覚え」の由来がフォントそのものにあり、それが佐藤可士和による制作物ではないだろうというオリジナリティ批判。もう一つは、フォント名の由来が殺人鬼にあり、それを自覚していないだろうという倫理批判。果たしてこれらの批判は、岩月記者の「見覚え」に対して応えているものなのであろうか。
まずは、オリジナリティ批判。岩月記者の論点は、「佐藤可士和氏はフォントの来歴まで知ったうえで、「自分の作品」に全面的に使用しただろうか」という点にある。これ自体は「フォントの来歴」の自覚を問うているようにも読めるが、より重要なのは「自分の作品」に他者の作品をいかに使うのかと指摘している点である。つまり他者によるフォントを使用するのであれば、その由来くらい知っておくべきで、その説明責任を回避するのであれば自分が制作したフォントを使用しなさいということ。
なるほど、これはこれで“理念的”にはわからなくもない(実際にこれを徹底したら無限後退にならざるをえない…)。制作物の《内容》に固有の意味を持たすことのできないデザイナーは、制作物の《形式》にしか固有性を持たせられない。ロゴマークからデザイナーを評価する場合、どこの大学なのかではなく、いかなる形にしたのかが重要なのだ。したがって、デザイナーは《内容》にではなく《形式》に説明責任を持つというわけだ。
次に、倫理批判。岩月記者の論点は、「名前の由来を知っていたら、大学のブランドのイメージを大きく左右するロゴデザインに、このフォントを使用しただろうか」という点にある。これはやや奇妙な批判である。なぜならロゴマークに現れるのはフォントそのものであり、その形態がロゴマークとしてどうなのかという評価を全くしないで、そのフォント名を問題にしているからだ。
フォント名の由来が問題だという批判は、そのフォントの使用を制限できるものなのか。またこうした批判がそれとして有効になるほど、フォント名とフォントの形態は本質的な結びつきを持っているのであろうか。今回のロゴマークのフォントの形態は同じままで、フォント名だけが異なっていた場合、岩月記者の「見覚え」は今回のような倫理批判になったであろうか?
要するに、前者のオリジナリティ批判は理念としては理解できる。しかしながら、後者の倫理批判はロゴマークのデザインそのものの問題というよりも、「名付け」の問題である。したがって、岩月記者の「見覚え」に応えるのは前者のオリジナリティ批判のみであり、後者の倫理批判は別の問題である。どうしても倫理批判をしたいのであれば、佐藤可士和が名前の由来を掴んでいないことを問う前に、ジョナサン・バーンブルックによる名付けを「作風」として評価することなく問うべきなのだろう。これなくして佐藤可士和や明治学院大学に対する倫理批判は無効である。
デザインが社会問題になる時、それは後者のような倫理批判の形をとる場合が多い。しかしそれをよく読んでみると、今回のようにデザインとは本質的に関係のない批判であったりするものだ。多くの場合、そこには批判する人の価値観が密輸入されている(フォント名の由来は「殺人鬼」だ!)。
倫理批判とは問題にすべき《内容》への批判であり、デザインとはそれを宙づりにした状態で存在する《形式》である(前者がフォント名、後者がフォントの形態)。だからこそ、デザインはある《内容》に対してほかの《形式》であっても構わないことを肯定する。こうしたことを踏まえ、デザインを「デザイン」として批判するのは非常に困難なのだ。
そもそも「批判」という思考が、制作物における《内容》の代替不可能性を前提にしているという点に問題があるとも言えるであろう(「作品」は自らを閉じることによって、批判への回路を開く)。《形式》という代替可能性の肯定は「批判」の失効を先取りしているからこそ面倒なのだ(「作品」ではないと先に宣言しているゆえに、批判への回路が開かれない)。