「境界線」はなくならない。
いつからか「境界線」という言葉を、自分なりに丁寧に使うようになった。そのきっかけになったのは、杉田敦の「境界線と政治」を『思考をひらく:分断される世界のなかで』(岩波書店、2002年)で読んだ頃からである。
境界線とは、一本なのか複数なのか、実線なのか点線なのか、そのどれにしても難しさはある。しかしながら、境界線なき政治は、自由のようでありながら、より不自由で不可視な境界線をつくりかねない。つまり、境界線を可視化する福祉国家とそれを不可視にする新自由主義とは対立をしているように見える。これに対して、杉田は境界線の「無限後退」を問題にして「境界線のない政治」を構想するのだけれども、彼自身が先取りしていたように、当時の僕には「若干リアリティがない」ように聞こえた。境界線を無効化するよりも、その流動性を確保していくことのほうが現実的ではないかと。
その杉田敦の新著『境界線の政治学』(岩波書店、2005年)では、その主張が「われわれは、境界線の流動化を、新たな政治へと結びつけていきたい」となっている。「内側にいると思っていたらいつの間にか外側にいて、外側のはずが内側になるという状況になっている」現在においては、それを成立させる境界線の無効を主張するよりは、それがいつだれによって何のためにどのように引かれているのかを明確にし、境界線への過剰な固執を相対化しようということだろう。
ところで、杉田は境界線の引き方として、国境などの「空間における境界線」と、人種・民族・階級などの「人間の群れについての境界線」を挙げ、それらは人々によって作られていることを主張する。
重要なことは、境界線は人々の頭の中にあるのであって、どこかに物理的に存在しているわけではないということである。もちろん、見えやすくするために線を引くということはあるかもしれないが、その物理的な線そのものが境界線なのではなく、それは人々の脳裡にある境界線を単に反映しているからにすぎない。ただし、このように言うからといって、人々は、何の屈託もなく、いかなる境界線も同じように楽に選びうるわけではない。ある種の境界線を選ぶことは、別の境界線を選ぶことよりも難しかったり易しかったりする。言い換えれば、特定の境界線に人々を誘因するような条件づけが存在していることは否定できない。(p.20.)
境界線が引かれてしまうことを問題にするよりも、それとは別の境界線を想像することが困難になってしまうことがあることが問題であるということだろう。このことは次のようにも確認される。
境界線を広げることによって境界線を廃止しようとすべきではなく、境界線の存在を意識することによって、境界線を相対化すべきである。…(中略)…。境界線がつねにあることを認めつつ、いかなる境界線も絶対的なものではなく、変えられるものであると考えること。境界線を消そうとするのではなく、それに対して距離をおくこと。政治の外に出ようとしても無理であり、政治の中にとどまるしかないことを認めること。こうしたことがさしあたり求められているのではないか。(pp.23-24.)
「境界線」はなくならない。どうしようもなく、それはなくならない。それを認めた上で、境界線とどのように向き合っていくのかを考えるしかない。この杉田の主張は国家や民族を相対化するという文脈ではあるが、現在の僕の思考もこれをきっかけにしているところがある。広告制作者やデザイナーにおいても職業の「境界線」は設定されるわけであり、それを成立させる言葉が「感性」や「センス」だったりするわけだ。それを無効化しようとは思わない。きっと、今のところはそのようにしか表現できないなにかがあるのかもしれないのだから。しかし、そうした「境界線」の言葉がいつの間にか「殺し文句」になり、それによって選択肢やチャンスが封じられるような事態が起こってしまうのなら、その「境界線」がなぜそのようになってしまったのかを明らかにしてみるべきだと思う。特定の誰かによるものではなくて、ふと気がついたら…ということも含めて、境界線を「境界線」として実定させてしまう条件はきっとあるはずだ。
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