「ややこしさ」が呼びこむもの。

oxyfunk2005-02-23

 先週末は民間放送連盟のセミナーとメルプロジェクトのシンポジウムに参加。今年は、メディアリテラシーを語りだした途端にどうしても抜け出せなくなってしまう議論の境界のようなものを再確認した。ゲストの平田オリザさんや桂英史さんのコメントが議論と噛み合っていなかったのは事実だが、その原因にはメディアリテラシーがもともと孕んでいた「ややこしさ」があるような気がしてならない。
 「ワークショップ」や「対話」という言葉での選択において、平田さんはメディアリテラシーと同じ地平にあるのだが、それらの用法が異なる。メルプロジェクトのワークショップは、送り手と受け手が「学び合う」ものを志向しているのに対して、平田さんのワークショップは、送り手が「プロ」として設計し、受け手に「学んでもらう」ものである。前者の対話が「送り手−受け手」間であるのに対し、後者の対話は「受け手」間であり、「送り手」の立場は揺るぎないものである。このどちらかが良いというわけではない。しかし、平田さんがセミナーのなかでこの違いを捉えて発言していたようには思えなかった。これを平田さん個人の問題としてしまうのは簡単だろう。しかし、同じ言葉を使っている平田さんですらここまでが限界なのだとあえて考えてみれば、メルプロジェクトのワークショップには「ややこしさ」があったと言えなくもない。セミナーの第一セッションで、「アイスクリーム王国」という「一歩ひいてしまう」ようなワークショップのネタに回収されそうになった会場の雰囲気を、司会の山内祐平さんが「メディアリテラシー」のこととして最後になんとかまとめあげようとしているのは象徴的だった。
 桂さんは、シンポジウムのディスカッションで「つまらない」と発言した。その理由や返答が何であれ、それは素直な反応だと思うところがある。これは誰に対してというよりは、メディアリテラシーをめぐる議論に対してのコメントだったと思うのだが、気になったのはその理由の一つとして「美意識」を挙げたことである。なぜ、桂さんはあの場でそれを言わなくてならなかったのだろうか。これについて、メディアリテラシーには、こうした言葉が「殺し文句」として滑り込んでしまうような隙間があるのではないかと思う。つまり、メディアリテラシーは「美」から距離をとっているがゆえに(少なくともこれを強調していない)、「美」による批判を容易に呼び込んでしまう難しさを抱えているような気がするのだ。これを大きく深読みすれば、もはやメディアリテラシーは、その実践の内容ではなく、実践の形式が問題にされてしまうステージにあるのかもしれない。桂さんのコメントは、「メディアリテラシー」という言葉がある程度普及した現在、この内容以前の形式の問題に向き合わなくてはならないことを示唆していたようにも思える。
 メディアリテラシーは、一方で「ややこしさ」をかみ砕かなくてはならない難しさを抱えつつ、他方では「美」などの形式面に着目した批判に耐えうるものとしての居場所を見つけなくてはならなくなった。難解でなく、且つ「美」に耐えうるものであること。こうした何にでも適用可能な批判を前にして、「マスメディア・リテラシー」と「ケータイ・リテラシー」という(シンポジウムでは初めての分類的な)語り方をした水越伸さんは、メディアリテラシーを語りながらメディアリテラシーをすり抜けていこうとしているように思えた。


※参考
・メルプロジェクト
http://mell.jp/
毎日新聞による記事
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/elearningschool/topics/news/20050221org00m040035000c.html