有名性と文化人

 南後由和+加島卓(編)『文化人とは何か?』(東京書籍、2010年)に関するワークショップを、日本マス・コミュニケーション学会@東京国際大学で行うことになりました。執筆者の多くが揃う機会ですので、この機会にご批判やご感想を拝聴させて頂けると幸いです。

日本マス・コミュニケーション学会 2010年度秋季研究発表会
期 日:2010年10月30日(土)
会 場:東京国際大学(第2キャンパス)
http://www.tiu.ac.jp/about_tiu/about/access.php

▼ワークショップ3(14:00〜15:40、24号館2階2423教室)
「有名性と文化人:現代メディアにおける人称性の消え難さ」
司会者:難波功士関西学院大学
問題提起者:加島卓(東海大学
討論者:石田佐恵子(大阪市立大学

▼キーワード
評価の不確実さ、異分野交流による承認、マス・メディア、自称の不在、他称の反復

▼テーマ案要旨
 移動や職業選択の自由を認める〈近代社会〉において、個人の継続的な努力は、他者からの承認と深く関わっている。その結果、ある者は成功と同時に「有名性」を得ることがあるが、そこに至るまでの過程や露出度の度合いによっては、疑念の対象になることもある。私たちは自らの進路を自由に選択できるようになった分だけ、学歴・資格・業績など、〈評価する/される〉といったコミュニケーションを行うようになったが、そうしたやりとりをどこか信じ切れず、またそうだからこそ、こうしたやりとりの結果には別様の反応を示すことがある。有名になるまでとなった後では、同じ人でも見え方が変わるというのは、こうした私たち自身のいい加減さというか、評価の不確実さに由来するのであろう。
 こうした問題意識を踏まえ、本ワークショップでは「文化人」という形象に注目してみたい。というのも、この「文化人」こそ、上述した意味での評価の両義性を孕んでいるからである。例えば、「文化人」と呼ばれる人々は既に何かしらの専門性を持ち、一定の評価を得ていることになっている。と同時に、「文化人」と呼ばれる人々はマス・メディアにしばしば登場し、どういうわけか自らの専門とはやや異なることへの反応を求められ、それが別様の評価を呼び込んだりもする。要するに、「文化人」はそもそもの評価を前提にしつつ、そのこと自体を流通させる仕組みに浅く深く依存することで、別様の評価をも誘発してしまう形象と考えられるのである。
 したがって、検討すべきは「文化人」本人というよりも、それを流通させる仕組みであり、それに伴う私たち自身の意味づけである。つまり、文化人そのものではなく、それがいかに成立しているのか/してしまうのかを問うことが、本ワークショップの課題となる。そこで上述の設定に基づき、本ワークショップではいくつかの事例と検討すべき点について問題提起者が報告を行う。またその報告に対して、先行研究や類似概念からのコメントを討論者が行い、続いて議論を広く行う予定である。
 なお、「文化人」に類似するものとして、「知識人」や「有名人」がある。これらには、そのように呼ばれる人はそのように自称することはない、という特徴がある。そうしたなかで「文化人」を選択したのは、まずその射程の広さに依るが、より重要なのは、今述べた意味での自称の不在が際立っている点である。「文化人」はそれとして「べき論」が語られることは無いにもかかわらず、しばしば否定的な言及を伴って「である」という判定はされ続けてきた(『日本の文化人:日本をダメにするタレント文化人を斬る!』噂の眞相、1998年7月別冊)。要するに、自称は不在でも他称は反復されてしまうのである。
 このような奇妙さゆえに、なぜ私たちは深く信じていないにもかかわらず、「文化人」という形象に依存してしまうのかが問われるべきだと考えており、これを揶揄することなく、現代メディアにおける人称性の消え難さとして問うのが、本ワークショップの狙いである。

▼日本マス・コミュニケーション学会 2010年度秋季研究発表会プログラム
http://wwwsoc.nii.ac.jp/mscom/event/annual_meeting/10fall/10fall_program.pdf

 なお、竹内洋「今を読み解く:学者の講義本に熱い視線」『日本経済新聞』(2010年10月10日)でご紹介頂き、amazonランキングでは一日限りの神風が吹きました(122754→389)。心よりお礼を申し上げます。

 付記:永江朗「ときに滑稽で皮肉な称号」『沖縄タイムス』(2010年10月16日)にて、南後由和・加島卓(編)『文化人とは何か?』(東京書籍、2010年)の書評が掲載されました。心より御礼を申し上げます。