池内恵「時流自論:中東論が映す日本の思想状況」『朝日新聞』(2005年6月6日)

 先日、アジアの仲間と議論をするとアメリカの話に辿り着いてしまうと書いた。このヘンテコ気分を掴み上げるように、池内さんは日本における中東論を支える前提=「「米国」への著しい関心」を示している。

「表面上は中東について議論しているようにみえて、ほとんど自動的にアメリカ論に転化していく。逆に中東で真に興味深い現象が生じていても、米国が絡まない場合はあまり関心を呼ばない。その背景には「中東=反米」という印象が根付いていることがある。」

 私たちは「反米的な中東」というイメージを前提にして中東を見ている。中東への関心は、アメリカへの関心を抜きにして考えられなくなっている。新聞やテレビが「親米的な中東」よりも「反米的な中東」を紹介するのは、私たちがアメリカに対してもっている捻れを中東経由で表象しよう/されたいと思っているからかもしれないのだ。
 そもそも中東諸国は「反米」なのか?というのが池内さんの主張で、トルコやイラン、アラブ諸国の反米言説やパレスチナスーダンの紛争調停などを見れば、「米国は憎まれ、同時にあてにされている」面があるという。日本における中東言説はこの点を見逃していて、冷戦時代にアラブ諸国の抑圧的な政権が共産主義陣営に接近して権力基盤を固めようとしたことを忘れてしまっている。ソ連なき現在、「フセインソ連が育てた」にも関わらず、「フセインアメリカが作った」を言わざるを得ない状況がここにある。アメリカを擁護するわけではないが、議論が横滑りしているのは間違いなさそうだ。

「どうやら「米国が全ての原因であるはずだ」という固定観念と「米国を批判してスッキリしたい」という欲求が先にあるようだ。それにしたがってあやふやな情報をつなぎ合わせ、「90年のイラクによるクウェート侵攻は米国が唆した」と主張して湾岸戦争も米国の責任だということにしてしまう。同様に「9・11事件も米国がやった」「イラク人に対するテロも米国が駐留の口実をつくるためにやっている」という陰謀論が流される。」

 なんでもかんでもアメリカのせいにすることで、目の前の状況をやり過ごしてしまう危うさを池内さんは指摘しているのだろう。この論理でいけば、アメリカを“あえて”除いて中東を語る可能性が担保されないからだ。
 同様のことを、先日の「東北アジア共同体」構想にも思う。確かにアメリカはちらついている。しかし、なんでもかんでもアメリカのせいにすることでそれを語ることは、かえってその構想を色褪せさせてしまうかもしれない。中国、韓国、北朝鮮、ロシア、日本、台湾はそれぞれに、米国に距離感を取りつつ、同時にあてにしているのが現実でもある。とはいえ、アメリカへの従属ナショナリズムを回避することが、アメリカを敵視することによる共同性構築になってしまうと、かなり息苦しい。親米/反米の二項対立に回収されない「東北アジア共同体」構想できる体力を、日常生活から編み出していけないだろうか。

現代アラブの社会思想 (講談社現代新書)

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