理由なき可視化は「無視」される
ここ半年位はライブツアーをしながら新曲を作るミュージシャンのような生活だったので、この夏休みはスタジオミュージシャンのような生活にしたい…。
「Ubiquitous Media: Asian Transformations」では、英語原稿を念仏のように読み上げて終了(ちーん)。昨年にソウル大学でローカルな事例を発表しても議論が成立しにくいと学習したので、論理的な展開がつかみやすい「エッセイ」を書き、ヘンテコな英語原稿に日本語訳をつけて配布。これによって「黙殺」は回避したものの、結局のところ、大事な質問には「It depends…」などと曖昧に応じた(涙)。国際会議での質疑応答には、ある種のパターンがある。これに慣れ、業績リストの充実に勤しむのか、それとも「そんなやりとり、意味ないよ」と反省的に逸脱するのかは、好みの問題だと思う。
またこの会議の関連企画である「UMATフォーラム@書評空間」と「Thinking Forest supported by TOPPAN」の、それぞれに書評(http://booklog.kinokuniya.co.jp/umatforum/archives/2007/07/post_13.html)とエッセイ(http://thinkingforest.info/staff_log/clustering1.html)を寄稿。書評対象はバーバラ・マリア・スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー』(産業図書、2006年)で、ミスマッチングに苦しみながらも(笑)、何のために「一致」を語るのかという点でまとめる。エッセイは内部向けの文章で、学内の事情に通じていない人には、なんのことだかわかりにくいかもしれない。要するに、なんでもかんでも「可視化」することに、個人的には全く意味を感じられないということ。
これは知識工学、ナレッジマネジメント、「知識の構造化」などに対しても同様で、工学知の論理をそのまま人文知に適用するのは無理な話である。少なくとも、知を抽象化することと、知を可視化することは区別されるべきである。人文知は工学知とは異なり、科学的な「真理」や「法則」を強く想定せず、人間による「解釈」の多元性を重んじるからである。
科学的に証明された知を構造化=可視化して、より多くの人々が同じように理解できるようにするのは重要である。しかし人文知は、それだけが知の在り方とは言い切れないと横滑り的に思考する。だから、いかに知が構造化=可視化されたとしても、それは「one of them」に過ぎない。「なぜ、ある知はそのように可視化されなくてはならないのか」が責任ある誰かによって説明されなければ、人文知的には耳の澄ましようもなく、結局のところ可視化の意図に反して「無視」される。「この新しいバージョンのシステムを実証するために、なにかコンテンツを集めて、可視化してみよう」などという、コンテンツの代替可能性を認めた技術の実証的思考を止めないかぎり、「知識の構造化」は遠い話だろう。
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『情報学研究 学環』(第72号、東京大学大学院情報学環紀要、2007年)に、「反−模倣としての個性:グラフィック・デザイナーと日本をめぐるアイデンティティの1950年代」という論文が掲載されました。基本的には、〈表現者〉としての自己肯定が、どのようにして「日本文化論」的な語りに接続されてしまうのかを、1950年代のグラフィック・デザイナーである亀倉雄策を事例として言説分析したものです。個人的には、〈表現者〉の語りが「日本文化論」的に聞こえてしまうこと自体が、歴史的な効果であるという点が強調したいところで、単純なイデオロギー反映論を目指したものではありません。それが成功しているかどうかはともかく、以下よりダウンロードできますので、どぞ。
▼東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/pblc-achv/bulletin/index.html