制服と視線

oxyfunk2004-03-01

 不思議な色の学生服を着ていた。「匿名の先輩から君たちの行動について連絡があった」とかなんとかを先生から聴くと「随分とヒマな人がいるもんだ」と笑っていた。「ブルセラ」ブームの夜明け寸前だったあの頃、男子校生にとって制服は着るものでしかなかった。大人の眼差しからは自由だと思っていた。
 ところが今はどうだろう。母校の後輩を街では見つけるのはそんなに難しくない。僕は後輩と一度も話したことがないくせに、彼らの持ち物のデザインが変更されているのを知っている。いや、新しい変更がないかを探してしまっている。制服なくては成り立たない眼差し。きっとそうした無数の卒業生からの視線に僕も晒されていたのだろう。
 おせっかいだというんじゃない。放課後に街で繰り出し、ゲーセンに潜り込む彼らはかつての僕でもある。ゲームがしたかったんじゃない。ただ、みんなといっしょに街をぶらぶらしたかっただけなんだ・・・。あなたは後輩に何を見てます?
 

 声が聞こえてきそうな書籍中心になっている最近の姜尚中。それだけにデータを消失してしまった「400枚の丸山真男論」が悔やまれる。姜の対談集でいつも思うのは、対談相手がしばしば「私も○○の教えをうけて・・・」「私は□□を読みまして・・・」といった個人的な学問回想モードに入ってしまうこと。もう、そんなこと文字にしなくてもいいのにナ。大学教授との対談には付き物なんですかネ。本書が「朝ナマ」から丸山真男久野収へ補助線となればよいなと思いつつ。
 

  • ジョージ・マイアソン著、武田ちあき訳、『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』、岩波書店、2004年

 書名の組み合わせに揺さぶられた。これは「ポストモダン・ブックス」シリーズ(翻訳監修:富山太佳夫)の特徴ともいえるだろう。表紙はハル・フォスターの『反美学』(頸草書房、1987年)とあんまり変わらないと思うが、「!」と思うのは本文頁下段に「節」の名を記していること。こういう細かな心遣いが院生の斜め読みを助けてくれる(笑)。
 ケータイにおけるコミュニケーションとはなにか。それを探るためにマイアソンはハイデガーとハバーマスのいうコミュニケーションと対照させていく。しかし、どうだろう。大澤真幸の指摘にもあるように、ハバーマスによる行為の2類型(コミュニケーション的行為−戦略的行為)に回収しえないケータイのコミュニケーションの居場所を私たちは「ワン切り」や「ショートメール」に見つけている。それは北田暁大が指摘したルーマンのいうコミュニケーションに近い。オモロ予感なんだけど、「ポストモダン」シリーズの一発目でハバーマスがでてくるとはネ。