都市はメディアである

oxyfunk2004-03-02

 いいじゃないか、そんなに残念がらなくとも。「アカデミー賞」っていわれてもねぇ。コンクールは不思議である。受賞すればきっと嬉しいだろう。それでも「これってそんなに凄いこと?」という素朴な問いはいつもある。受賞の意味が共有されていない人にとっては、なんともないのがコンクールなのだから。にしても、受賞者のトロフィーの握り方が気になるなぁ。フィギュアもよくみるとかなりコワイ。
 「ポロリ」はみられなかった。いや、正確には回避された。5秒遅れの中継によって。放送を放送たらしめる最後の生命線としての<生>の面白さと難しさが揺さぶられている。ふと、証人喚問の中継のことを思いだした。静止画像に音声を載せた放送しかしない現在、リクルート事件における江副浩正の「ぶるぶる」は歴史的映像だろう。
 今夜の「あの二人」はラジオ欄によると「もう限界」だとか。さていかに。
 

  • 若林幹夫、「都市とメディアの交わる場所−−都市論のトポス、メディア論のトポス」、吉見俊哉編、『メディア・スタディーズ』、せりか書房、2000年、pp300-309

 「都市はメディアである」と言うとき、それはどのようなメディアなのか。「マルチメディア・システム」するキットラーの議論を踏まえた若林幹夫は、都市を「物質−身体的な」関係の場であると同時に、「物質=身体的なものからの離陸が開く」関係の場であるとする。前者を現実空間とし、後者を仮想空間(サイバースペース)とする場合、2つの誤解がしばしばみられる。ひとつは「メディア都市論」的誤解であり、「現実の都市」が「ヴァーチュアルな都市」へと解消されていくもの。もうひとつは「反−メディア都市論」的誤解であり、「現実の都市」に「ヴァーチュアルな都市」を対置させていくもの。「現実の都市」と「ヴァーチュアルな都市」はマクルーハンのいう「メディアのメッセージ」が異なってはいるが、これらは「ヴァーチュアルな都市」を前提とした議論であり、「都市」そのものが何をあるのかを述べたことにはなっていない。田中純は、都市が「決定的な接近が不可能であるとともに禁じられた執拗な欲望の対象として、「都市の政治学社会学」は都市なるものの本質のまわりを旋回し続けてきた」と、同様の指摘をしている(田中純岩崎稔、「「メディア都市の地政学」をめぐって」、『10+1』、13号、INAX出版、1998年)。
 「電子的なメディアが物質的な都市における身体の集合性を地理的な空間から部分的に解放すると同時に、集合的な身体の物質性とそれらが場を占める都市や世界の空間性が、電子的なメディアが可能にする関係の場を枠付け、縁取っている」とする若林の結論は明確だ。「現実の都市」はその内部に「ヴァーチュアルな都市」をも組み込んでいる。だから、前者が後者へ解消されることもないし、前者と後者が対置されることもない。その意味において、都市が「マルチメディア・システム」であり、都市をめぐる議論が「メディア論」を回避できないことの意味を簡潔、かつ丁寧に説明したもの。