広告都市の「死」について

 広告について語ることと、都市について語ることが、いつの間にか接近するようになった印象がある。それは「広告都市」と呼ばれたりするのだが、多くの場合は「空間の自己完結性」(吉見俊哉「遊園地のユートピア」『リアリティ・トランジット』紀伊國屋書店、1996年)を事例のなかに探し、ディズニーランド分析と変わらなくなってしまう。というか、ディズニーランドと似ているところしか語られない。渋谷=公園通りから郊外のショッピングモール、そしてテーマパーク的な商業施設やユーザーアカウントとパスワードを前提にした情報技術空間の分析にまで拡張される広告都市論は、「空間の自己完結性」だけを追いかけてしまっているように思う。そういう傾向を「ディズニー化する社会」(アラン・ブライマン)と呼ぶ人すらいる。

 ここで思い出したいのは、北田暁大『広告都市・東京』(廣済堂ライブラリー、2002年)は「その死」、つまり1990年代以降の「都市の脱舞台化」や「情報アーカイブ」としての渋谷の新規性を記述するために、「広告都市」という設定を持ち出していた点である。つまり、日本各地で空間の自己完結性探しをするために広告都市が語られたのではない。殺されるはずの広告都市が「ゾンビ」のようにして、ショッピングモール論やテーマパーク論に横滑りしているように思うのだが、そこまでして都市とディズニーランドの同型性は守られるべき「何か」なのであろうか?

 興味深いのは、こういう傾向に対して、当時の渋谷=公園通りを知る者から反論が上がったことである。曰く、「実際には、パルコは八〇年代にはすでに消費の主役ではなかったと思うのだ。なのに、なぜ「八〇年代―消費社会―パルコ公園通り」という連想ゲーム的な言説が今でもまかりとおるのか?」(三浦展『「自由な時代」の「不安な自分」』晶文社、2006年、p.118)。「そもそも私が「八〇年代―消費社会―渋谷パルコ公園通り」という図式をあまり信じる気になれないのは、たとえば渋谷パルコパート1の売り上げが一九七九年にピークとなり、以後八九年まで減少し続けたという事実による」(同書、p.122)。つまり、広告都市があるとしても、その事例に渋谷=公園通りは適切なのか?という反論なのである。

 さらに興味深いのは、この反論が次のような空間のセグメント化に接続されている点である。

「もちろん、結果として公園通りが、広告化された空間になったことは間違いない。しかしそれはすべての通行人に魔法をかけ、知らぬ間にパルコで消費することを目指したものであろうか。(引用者註:セゾングループの専務、社長、会長を務めた)増田は言ったことがある。「HANAKOを読んで、買い物だけをしてる、そんなOLは頭が空っぽだ」。増田はパルコで洋服を買うだけで満足するような女性を好んではいなかった。増田がパルコに本当に来てほしかったのは、芝居や美術が好きな若者であり、日本グラフィック展に応募する美大生のようなクリエイティブな若者であって、増田は、そういう若者と共に街を作っていくという感覚を求めていたのである」(同書、P.127)

 いわゆる広告都市論以後、渋谷=公園通りはパルコによる「空間の自己完結性」が徹底された場所として理解されがちである。しかし、そんなにも単純ではないのかもしれない。「空間の自己完結性」が徹底された広告都市と言えば、そこにいる人びとがみんな巻き込まれてしまう印象を持ってしまうわけだが、そういうマス広告観は1980年代にはすっかり吹っ飛んでいるわけであり、むしろセグメントされたマーケティング戦略が追求された空間として捉えるべきではないかというわけである。ディズニーランドに連れていかれたところで、帰りまでどうしようもなく時間をつぶすしかない人びとだっているわけだ。

 実際のところ、当時の増田通二はパルコでの日本グラフィック展を以下のようにも述べている。

「ただ単純に作品コンペというだけでは、あの時点では育たなかったと思う。要するにパロディとコンペ雑誌が当たったというのは、何か原動力だったという感じがします。もう一つは、街の演出でした。コンペに来る人の顔。…(中略)…。街は勝負かける舞台だというのが、街の基本テーマだと思う。ぼくはグラフィック展やオブジェ展でいつも落選の顔が好きだという。落ちたやつの顔が好きだというのは、当たった、落ちた、そこがドラマ化するのに一番いいモチベーションだと思う」(増田通二「座談会:アートの地層が液状化した」、榎本了壱(監修)『アート・ウィルス』パルコ出版、1989年、p.44)。

 要するに、渋谷=公園通りはより細分化された人びとをターゲットにした空間設計をしていたわけで、それを徹底した結果が後に「広告都市」と再記述されるようになったと言えるかもしれないのである。

 こうした経緯から、近森高明・工藤保則(編)『無印都市の社会学』での拙稿「アートフェスティバル:順路なき巨大な展示空間」では、パルコで日本グラフィック展が開催されていたことの意味を分析しつつ、やがてデザイン・フェスタやGEISAIのように臨海部の巨大会場で美術鑑賞が行われるようになるまでの歴史を描いてみた。それは、美術鑑賞において「都市」という審級が消えていく過程のお話でもある。

「つまり、日本グラフィック展からアーバナートまでが開催された1990年代までは、他でもなくパルコがある都市(吉祥寺や渋谷)において、このような公募展が行われることに強い意味が持たされていた。舞台としての固有性が求められる空間こそ、稀少な作品が発掘展示されるにふさわしいというわけである。その意味において、新人の登竜門は都市でなければならない。少数に絞り込んでいく作品の序列付けと他でもない固有な街の序列付けはペアで理解されていたのである」(加島卓「アートフェスティバル:順路なき巨大な展示空間」、近森高明・工藤保則(編)『無印都市の社会学法律文化社、2013年、p.182)。

「つまり、(引用者註:1990年代のデザイン・フェスタを経て、)GEISAIが開催された2000年代にはそれまでのように都市の舞台性にこだわることなく、巨大会場でアートフェスティバルが開催されるようになった。また、それゆえに事前に出展者を絞り込む必要がなくなり、今度は大勢の出展者の前で公開審査を行うようになった。しかし、それはそれで大変な労力を伴うものであり、結果として主催者の人称性が巨大会場を秩序付けるようになったのである。その意味で、新人の登竜門は「どこでやるのか」というよりも「誰がやるのか」という点、つまり「都市」ではなく「人称」が重視されるようになったのである」(同論文、pp.183-184)。

 広告都市=空間の自己完結性を記述し続けようとすれば、ディズニーランドと似ているものを探し続けるのであろう。しかし、広告都市の事例とされた渋谷=公園通りの「思想」において狙いを定められていた人びとの動きを観察してみると、どうも空間の自己完結性には還元されない自由度の高くて緩い空間消費へとズレていったことがわかる。1990年代に美術批評の特権性が吹っ飛び、多様性が肯定されたなかで作品がかなり自由に制作できるようになって、都市的な空間の稀少性によってわざわざ囲い込む必要性が少なくなったのかもしれない。

 2000年代になって日本全国でアートフェスティバルが地域振興として開催できてしまえるのも、またウェブサイトという情報技術空間において作品を発表してそれなりの評価を得られるようになったのも、このような審級としての「都市」の消え方と不可分ではないように思う。というか、広告都市の「死」はここでようやく観察され、それなりに殺し甲斐のある概念となる(笑)。

 なお、同書のコラムでは「東急ハンズ」を取り上げている。こちらは資料を読んでいて本当に楽しかったので、論文としてもう一度書き直したいくらいである。多様性の肯定と自己責任の消費行動が、縦に序列化された商品空間と「ハンズマン」と呼ばれるコーディネーターによって支えられ、特定の世界観を回避することが「東急ハンズの世界観」になるまでのお話である。

 都市論などにご関心のある方に、お読み頂けると幸いです。