2つの「あの時」

oxyfunk2004-03-03

 近所から大きな歓声が聞こえた。ああ、そうか、きっと代表チームが得点したのだろう。
 予選を見るたびに思い出されるされる2つの「あの時」。「ドーハの悲劇」の瞬間、テレビが壊れたかと思った。同点ゴールの映像を疑ったんじゃない。テレビから音声が聞こえてこなかったのだ。延長の緊張は静かに引き裂かれた。「岡野のゴール」までの瞬間、カーラジオから離れられなかった。決勝ゴールの映像を観たくなかったんじゃない。一瞬でも耳を話すことができなかったのだ。延長の緊張は興奮でどこかにいってしまった。
 「あの時」、代表チームが予選を通過できなかった/できたという試合結果だけが重要なのではない。社会的な出来事に寄生する無数の個人的な記憶。「あの時」、私は、何処で、誰と、何をしていたのか、も重要だろう。近所の歓声に思うのは今後の代表チームの行方ではない。「あの頃」の僕がまだそこにいるかもしれないという、ささやかといえばささやかな想い。
 ノスタルジーに身を任せてテレビをつけてみたが、そんな気持ちはすぐさま2つのCMによって見事にひっくり返された。「ナイキ」かと思えば「ペプシ」。15秒でも2分でもオチを先読みしてしまうことは止められない。商品が出てこないかもしれない不安もCMに飼い慣らされた身体がゆえか。随分と気合いを入れているわりには、ほとんど新しさを感じられないのは僕だけか。
 オネエのダンスに目を奪われてはいけないのが「SORA」(笑)。なんでしょね、このわかりやすいフィギュアは。選曲も不思議不思議。それでも商品名の書体はちょっと綺麗め「NIVEA」系。

毎週土曜日の昼になると、
彼女は僕のところへやってくる。
へんなカタチの飲み物を持って。
いつものように「いい天気だね。」と声をかけたら
「明日は曇るわ。」と彼女はあいさつした。
どうして僕のところへ来るのだろう。

今日も何かを拾ってきたようだ。
どこか遠い国の古いカセットテープ。
たまには耳をすましてみようかな。

彼女は空が好きみたい。
来週このベランダを彼女にあげよう。

やあ今日はよく晴れた。


 っていわれてもねぇ。綿矢りさ金原ひとみの小説を読んで以来、こうしたコピーの居場所はあるのかと「ひなおこし」をボリボリしながら思ってみた。
※参考
ペプシコーラ
http://www.pepsi.co.jp/navi_swf/f_starplayers.html
・SORA
http://www.suntory.co.jp/softdrink/sora/cm.html

  • 『談』no.70、「特集:自由と暴走」、たばこ総合研究センター、2004年

 綺麗な雑誌だなーと思ったら、随分と豪華な書き手に「!」。大澤真幸×廣中直行「「人間的」自由と「動物的」自由」、森村進リベラリズムからリバタリアニズムへ」、稲葉振一郎自由主義の課題」、仲正昌樹「虚構としての<自由な主体>」。この雑誌のオモロい点は「editor's note」がそれなりに量を使って書かれているところ。司会のバランス感覚でシンポジウムの内容が決まったりするのと同様に、エディターの適度なコメントはその雑誌をより広い読者へ開くものとなるだろう。立ち読みにはもったいない出来上がり。