<教養>の隙間

 それは突然だった。携帯に「出会い系サイトの使用料金が未払いなので連絡をしました」と。その瞬間に「あ〜あ、ハズレちゃったね」と思いつつ、ここは「名義はどなたですか」と相手の出方をまつ。「この電話番号を調べればわかる」と反応に「あ、やっぱりネ」と思っていたら、金額も言わないまま(笑)、突然「支払いますか。支払いませんか。」と急き立ててきた。「お〜、きたきた」と思いつつ「意味がわかりません」と聞き返したら、「支払わない場合は『裁判』をおこしますよ」とキメの一言が。それからは大きな展開もなく、「結構です」と「支払ってください」を何回か交わしたところで、「結構、結構じゃねえよ。シネッ。」と一方的にブチ切れされてジ・エンド。
 「オレオレ」の亜種のようなものだろう。同様の請求がメールで出回っていることがあったが、携帯でもあるようだ。「みなさん気を付けてください」というまでもないかもしれない。電話の向こうは同年代の若者だった。独特の軽いイントネーションを隠せないまま、それでも一生懸命使っている「丁寧語」が妙に悲しく響いた朝だった。みなさんだったらどのように対応するのでしょうか。
 ところで「裁判」はどれほどキメ言葉として機能するんですかね。どの業界でも「これをいえばイチコロ」的言葉があるでしょうが、これに限ればあんまりパンチ力がないなーと思ってみたり。話し手にも聞き手にも、<教養>の隙間をついているように聞こえてしまっているのが問題なのかな。

 かなーり距離を置きつつも「1980年代論」ってことで。誰が「おたく」を語ることができるのか。大塚英志は、「現代美術に引用され」、「ポストモダン的な批評によって承認」される「オタク」に苛立ちを隠せない。彼にとってそれは「おたく」ではないのだ。ところが<愛>だけで「おたく」を語っても、なぜ彼が苛立つような語りが生じてしまうのかの説明にはならない。対象との距離感のなさから生じるつまらなさ。本書での大塚は自ら進んでネタ化しようとしているとしか思えない。なんでもかんでもネタ化したのが80年代だとしたら、それも当たり前なのかなと思いつつ。
 

 みうらじゅんだけじゃない。この世代において誰が「知識人」なのか。いや、きっとそんな「問い」は失効しているのだろう。<世界の切り取り方>が無限に認められる現在であるにも関わらず、みんながなんとなくしてしまう「お約束」は少なくない。脱啓蒙を偽装しつつ、泉麻人は「お約束」に楽しく光を当てていく。「お約束」は発見される。そしてそれは語られる。時には「なんでだろ♪」とつっこまれたりもする。視線の集中講座にはもってこいのテキストかな。