「メディア・リテラシー」という魔法

 今夜もまた「ナイキ」かと思えば「ペプシ」が。耳を澄ましてみよう。なんでジョルジーニョがボールをもった瞬間にだけ「ピーヒャラピーヒャラ」いうんでしょ。緊張してんだか、していないんだか。ま、いいか。
 アルジャジーラ・スタジアムからサイレンが聞こえてくる。きっとUAEのサポーターが鳴らしているんだろう。これが実にいいタイミングなのだ。練習したんだろうなー。甲子園でもお馴染みの音なんだけど、なんで今でもサイレンが必要なんですかネ。不思議といえば不思議。
 「メディア・リテラシーナショナリズムをどのように扱えるのか」といった主旨の質問が「メディア・リテラシーと情報知の地政学」というシンポジウムであった。なるほどメディア・リテラシーをめぐる支配的な理解の一つに「私たちは賢くならなくてはならない」があるかもしれない。それはそれでいい。しかし、こうした理解はメディアの人間への想像力を働かせていないのではないか。メディア「に対して」発動すべきものとして「メディア・リテラシー」。この意味において、メディアは常に批判の対象でしかない。自分の言いたいことをまったく取り上げてくれないと強く不満をもっている人ほど、この魔法にかかってしまう。
 メディア・リテラシーをそうした狭義に回収しないという立場を取るのなら、その理解もすこし変わる。「私たちは賢くならなくてはならない」から「私だったらどのように表現したのだろう」へ。無邪気に「表現しようよ!」といいたいんじゃない。他者(メディアの人間)の問題を自分の問題として捉えていくこと。主体の交換可能性をメディアにおいて考えること。他者への批判的思考ではなく、他者理解のきっかけとしての自己表現への批判的思考。考えるべきは、メディア「に対して」ではなく、メディア「において」、だろう。この意味においてはじめて、メディア・リテラシーはメディアとそれに向き合う人間の付き合いを考える方法となるのではないかと思う。
 明日も明後日もあるので、関心のある方はどぞ。当日参加も可能みたいだし。
※参考
・メルプロジェクト(Media Expression, Learning and Literacy Project)
http://mell.jp/