制度化をめぐって

 メルプロジェクトでの一言を挙げるのなら、「メディア・リテラシーを身体化した人間とは何者なのか」(吉見俊哉)である。「メディア」は無色透明でないとする「メディア・リテラシー」もまた無色透明ではない。そうしたことが巧妙に脱色されたまま「メディア・リテラシー」が制度化されつつあることは確認しなくてはならないだろう。
 思想と距離を取ること。それは啓蒙性を一時的に回避するためには有効な作戦かもしれない。しかし、それが別の思想を滑り込ませる隙間を生みだしてしまう。思想に距離をとっているがゆえに、別の思想が滑り込んできているという状況に気づきにくくなってしまうことはないのだろうか。
 「○○の知見を取り入れる」といった文脈を想像してみればいい。水越伸が『新版・デジタル・メディア社会』(岩波書店、2002年、pp119-122.)で指摘していたように、メディア規制の論拠として援用される「メディア・リテラシー」は、それが孕む啓蒙性が巧妙に脱色されたうえで、「逆手にとられて利用」される。
 脱思想化しつつも思想的強度をもつこと。「メディア・リテラシー」はこうしたねじれを抱えている。実践が散在している現在、それらを語る言葉はいろいろあっていいと思う。それでもメディアにいる飼い慣らしからの逸脱を試みた「メディア・リテラシー」が、それによって飼い慣らされてしまっては身も蓋もない。吉見は、介入していく対象を想定しないまま身体の律し方を論じていくことの危うさをあえて指摘したのだろう。