クリストファー・ホロックス著、小畑拓也訳『マクルーハンとヴァーチャル世界』2005年、岩波書店

 この「ポストモダン・ブックス」シリーズは解説が誰なのかが購入の決め手で、これは吉見俊哉さんによるもの。「単にこれまでの資料をデジタル化するというのではなく、むしろ大学という機能全体をヴァーチャル世界のなかで再編すること、ネットワークのなかで、これまでの大学のシステムを内破していくような知的対話の空間を、しかしこれまでの大学の制度やカリキュラムと結びつけながら編んでいくこと」というところは、先日の「思想としてのアーカイブ」とも関係する話。知のデジタル化だけでなく、デジタル環境における知において、「学び」や「研究」は捉え直されなくてはならない。

 クリストファーによれば、マクルーハン的視座で現在のコミュニケーションを記述することは、マクルーハン自身の論理によって封じられていることになる。その根拠に挙げられるのがマクルーハンの「両義的な態度」だ。それは一方で「メディアはメッセージ」というテーゼによって、内容が先行して読み込まれてしまう事態から形式の存在を救い出す「脱構築」を構想しているにもかかわらず、もう一方ではこのテーゼの貫徹によって「原始的で、統一された感覚の状態への回帰」という「ヒューマニズム」をも構想している。要するに、マクルーハンはその論理のなかに、ポストモダンと反ポストモダンを同居させてしまっているのである。


 僕としては、マクルーハンのメディア論の限界は、その審級を「現実」に設定したところにあると思う。「ホット」「クール」の分類はその典型で、「現実」からの距離感(現実に近い/遠い)でメディアを測定するマクルーハンのプログラムは、メディアによる現実構成をかなり狭く捉えてしまっていないか。「メディアはメッセージ」を現代社会のコミュニケーションにおいて理解していくためには、メディアにとっての準拠点が「現実」でなくても良くなってしまっていることを認めることから始められないだろうか。広告やお笑いなどではそれが理解されやすいが、ニュースやドキュメンタリーとなるとこれをかなり慎重に言わなくてはならない(同様の論理をもっていると考えるのだが)。「現実」を志向しようとする姿勢が、メディアを「審判」として仕立て上げてしまうことは少なくないと思う。しかし、メディアは現実との参照関係で駆動すると考えるのと同じくらい、メディアはそれ自身のために駆動してしまうと考えることがあってもいいはずだ。内容だけでなく形式もまた「メッセージ」なのだから。

マクルーハンとヴァーチャル世界 (ポストモダン・ブックス)

マクルーハンとヴァーチャル世界 (ポストモダン・ブックス)