監視社会をめぐって

 継続してお話を聞ける機会は滅多にないと思い、東浩紀さんのゼミに出ている。かつて村上隆や雑誌『広告』周辺で賑やかだった「スーパーフラット」はもう誰もいわないなーなんて思いつつ。とにかく『動物化するポストモダン:オタクからみた日本社会』(講談社現代新書、2001年)、『自由を考える9・11以降の現代思想』(NHKブックス、2003年)あたりを電車読み。近刊の『情報自由論』で触れられるであろう「かつてよりも自由を獲得しているにも関わらず、かつてよりももっと管理されてしまう」という逆説に対して、左翼的な監視社会論にすべてを回収してしまうことなく、どのような批判的言説の居場所を見つけていくのかはとても興味深い。
 監視社会を巡る議論はそれとして分かる話であるけれども、どうもそれ以上ではないと思うことが少なくない。例えば、酒井隆史『自由論:現在性の系譜学』(青土社、2001年)を読んでみると、一方で不可視の監視者を可視化していく試みに「鮮やかだなー」と感じつつも、他方では「なんでこの人はこんなにもメラメラしているんだろう」と思うところがある。どうも僕がドギマギする理由は、監視社会そのものにではなくて、監視社会を積極視する言説と消極視する言説の揺れ大きさにある。しばしば聞く「私たちの自由が制限されるかもしれない」という監視社会批判は、積極派だけでなく消極派に関心を持つ者にも響いていないではないだろうか。
 おそらく問題の一つとして監視社会を巡る批判の響かなさがあるだろう。なぜか。それを知るのが今回ゼミ参加の目的なのだが、ちょっと予想をしておこう。僕は批判の響かなさの一つの理由として、「いまさら「監視」といわれてもねぇ、それでどうすんのよ?」的開き直りがあると思う。これだけだととても平べったい言い方であるが、この平べったさにこそ重要な問題が含まれているのではないだろうか。
 つまり僕たちは、監視を「監視」として知る前から、自分の情報をいろいろな方法で他者に与えつつ同時に他者から情報をもらうことで、そういった行為が自らを社会に埋め込む実践であると確認しているところが少なくない。しかし、こうしたことの一つ一つに正当な根拠を発見していたら、時間がいくらあっても足りないのである。となると僕たちは自分が社会で程良く流通していくためには、ある程度の無根拠を前提としなくてはならないのである。
 この無根拠が苦肉の策として自覚されている場合においては、いつでも根拠の設定に回帰できるチャンスがあるいう意味で問題はまだ少ないかもしれない。それでは、この無根拠が所与のものとされる場合はどうだろう。自分が社会で流通していくためにはショーガナイ。こうした単純な論理があるとするならば、このシンプルで且つ妙に説得的な主張は自らの無根拠さを素直に認めてしまう点に支えられているのだと思う。先にいった開き直りはこの無根拠さに支えられている限り、なかなかそれを対象化することが困難なのだ。
 監視社会を積極視する論理は「セキュリティ」とはいうものの「あなたを監視下に置く」と全面的には言わない。がゆえに「セキュリティ」という名において「監視下」にないよりはあるほうがいいかもしれないと捉えうる解釈の隙間が生じる。無根拠の開き直りはこの隙間において見られる行為の一つ、すなわち現状のリスクに不満を持ちつつも自分へのさらなるリスクを回避するためにはやむを得ずとする現状維持的な身構えなのではないか。
 僕たちは生活する上でなにかしらのリスクを設定することは避けられない。だとすると、想定外のリスクを回避するために回避可能なリスクを設定し、それから距離を取ることによって現状を維持し続けるというゲームにどこまで根拠をもって参加するのかどうかといったイメージでしょうか…。もちろんこれだけでは解決にはなりませんが。

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)