渋谷は、全体的に特徴がない。

 ワークショップのデザインを、講義の後半で行った。「都市空間とメディア・リテラシー」という設定で、各チームは、まず任意の都市空間に対して事前に持っているイメージを出し合い、次にメディアでいかに表象されているのかを調べ、実際に街へ足を運び、イメージや表象と実際に見たものとの差異を中間報告する。

 次にそれらを踏まえ、各チームは問題意識と学習目標を設定し、都市とメディアの関係を考え直すためのワークショップを企画。それだけでは実効性に欠けるので、実際に使用する教材と広報用のチラシも作成し、最後にはそれらも紹介しながらプレゼンテーションを行うというものである。

 しばしば「批判的な読み解き」と単純化されるメディア・リテラシーは、「そんなことは言われなくても、わかっているよ」的な印象を持たれ易い。しかしこちらこそ、「そんなことは言われなくても、わかっている」。表象と現場の差異そのものではなく、その差異がどうしても消去されないということ。そしてどんなに冷めた態度で接しても、私たち自身がそうした差異の再生産から逃れられないということ。それを知るのが狙いである。

 したがって「○○の真実はこれだ!」的なワークショップのデザインは、まず目指さない。これでは、洗脳セミナーと同じだからである。むしろ「ある事実とまた別の事実にズレが発見された時、その隙間に真実なるものが想像される。しかしこれを表象しようとすると、失敗だけが積み重なり、それが達成されることもない」ことを、意識してもらうようにした(これもまた一段ズラしの洗脳なのだが…)。

 要するに、表象の失敗がさらなる表象(の失敗)を呼び込んで、描ききれない「何か」がどんどん先送りされ、私たち自身もその運動を無視して生きていくことは難しい…という話である。

 実際には東京都内から九つの街が取り上げられた。なかでも渋谷はいろいろ調べた結果、「全体的にあまり特徴のない街」とした点が興味深かった。勿論渋谷にはいろいろな人々がいて、いろいろな建築や店舗もある。しかし「これと言われるとない…」、というわけである。とりわけ、この「全体的にあまり特徴のない街」という知見は、受講生全体にある種の不安を産み出した。意味が充満しているはずの都市空間に、意味が見いだせない。それも「渋谷」である。

 このことは最終的に、私たち自身がどれだけ自分勝手に都市空間を読み込んでしまっているのかを反省させる契機となった。「イメージのなかにしか渋谷は存在しないのだ!」的な理解とは彼岸にある、「私たちはある種の意味づけなしに生活するのは、思った以上に難しく、相当の不安を伴うのね…」的な理解である。ある都市空間を無意味な状態にはしておけない、私たち自身のおぞましさに気がついたのである。

 この「全体的に特徴のない街」という知見は、「文化空間としての象徴性を喪失した〈ポスト八〇年代〉の渋谷、もはや「プチ渋谷」に自足する若者たちを引っ張り出すだけのアウラを持ちあわせてはおらず、「(たんなる)ひとつの大きな街」「巨大な郊外都市」となりつつある」(北田暁大『広告都市・東京』廣済堂ライブラリー、2002年、p.127)という話を思い出させる。しかしよくよく考えてみれば、こうした話がそれとして響いてしまうこと自体が、ゼロ年代の学生には理解ができないものである。パルコ的なものや、シブヤ系的なものは、おっさんとおばさんのなかにしか存在しないのだから(涙)。

※追記
 クアトロの物販フロアを、ブックオフが占めることになった(http://www.shibukei.com/headline/5444/)。かつてのHMV渋谷店跡に、マルハン(パチンコ屋)が入った時なみの驚きである。宇田川町交番前のゼンモール(紳士服屋)が、地域の長老のように見えてきた。

広告都市・東京―その誕生と死 (広済堂ライブラリー)

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東京スタディーズ

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