*[critique]情報技術批判の困難とメディア・リテラシーの危機

 「報道ステーション」の後に「ワールドビジネスサテライト」を見ると、本当に同じ一日のことを扱っているのだろうかと思うことは少なくない。何事にも「ビジネス」との連関を忘れない後者にとって、前者はコンテクストにすぎないのだろう。技術革新とその評価を重視する人々にとっては問題=バグの「修正」としての「バージョン・アップ」がニュースであり、政治・社会・文化を重視する人々においては問題=バグの「反復」がニュースである。“いま−ここ”というリアリティ(としての個人的な苛つき)は、こうした「バージョン・アップ」的な語りと「反復」の語りが不均衡に循環するなかで浮上してくる。
 
 コンピュータを購入して、インターネットを利用すること。これを生活や仕事の一部に組み込むようになってから、わたしたちはどうしようもなく「バージョン・アップ」的な語りを無視することができなくなった。手許の端末やソフトウェアで最新の情報にアクセスできない場合、その原因は「バージョン・アップ」的な語りに乗りおくれているからだというように、個人に帰責されるのである。
 
 ここで奇妙なのは、技術革新への違和感が自動的に「保守的傾向」とカテゴライズされてしまうことである。ここでは「バージョン・アップ」的な語りについてきているかどうかが、個人による情報の選択よりも先行してしまっている(メディア・リテラシーの危機)。そして「バージョン・アップ」的な語りに距離感を持つということは、その分だけ遅れているというだけでなく、その分だけあなたは損をしていますよという警告すら孕むことになる。
 
 技術革新への自覚的遅延は“戦略”としては笑えても、“警告”の無視となると笑えない。「バージョン・アップ」的な語りをめぐる可能的な選択対象自体がすでに選択されており(メディア・リテラシーの危機)、それへの異議申し立てが“損得”の話にすりかえられ、批判が利益享受との天秤にかけられてしまうからである。技術革新は、その速度への対応/非対応によって人々を「保守的である/ない」と自動的に分類していくプログラムを内包しているのだ。
 
 このような「バージョン・アップ」的な語りの空間にどうしようもなく組み込まれた私たちは、外在的に文句を言っても相手にされることはない。もちろん「バージョン・アップ」的な語りの空間から降りる自由は認められている。しかし自分は黙っているつもりでも、検索ロボットは自分の意志とは別にスキャニングを行い、データーベースを更新していくのだ(アーミッシュという人々がアメリカで集団的に生活していることを、私たちはメディアによって知っている)。したがって既ににどっぷりと「バージョン・アップ」的な語りの空間に組み込まれた私たちは、それに内在して違和感を示していくほかないのである。
 
 とはいえ、みんながみんなで情報社会の二層構造(インターフェースのデザイン/プログラムのコード)の両方に対するリテラシーを高める必要があるのかどうかは疑問である。プログラマーは誰もが参入離脱可能な専門職の一つとしてその規範を自己反省的に形成させつつ、彼ら彼女らの決定を運用において外部からでも批判できる回路を確保しておくほうが現実的であるように思う。その意味において、「朝日新聞」や「ニュース23」などの伝統的なマスコミが取り上げることがなくとも、情報技術系のニュースサイトが形成するまた別の(非常に独特な)社会空間は観察しなくてはならない(「バージョン・アップ」的な語りの空間に内在するしかない)。

東京大学タブレットPC/ストリーミング配信を用いた教育環境をデモ 
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2007/0215/tokyod.htm
東京大学タブレットPC/ストリーミング配信を用いた教育環境をデモ
http://computers.yahoo.co.jp/computer_news/al/20070215-00000026-imp-sci.html
NHKアーカイブスで現代史を学ぶ--東大でデモ授業
http://news.livedoor.com/article/detail/3031628/
NHKアーカイブスで現代史を学ぶ--東大でデモ授業
http://japan.zdnet.com/news/ir/story/0,2000056187,20343204,00.htm
・おそらく「世界初」のタブレットPC授業を公開
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0702/15/news106.html
タブレットPCNHK映像を使う「世界初」の授業、東大が公開
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070215/262183/?ST=pc_news
・世界初、東大が公共放送のアーカイブを教育に利用 東大が開発した「未来のマルチメディアノート」
http://www.atmarkit.co.jp/news/200702/15/meet.html

 情報技術に関するニュースは、それが「中立的で、あらゆる運用に開かれている」と考えられているがゆえに、強い意味選択がされてなく、単に新しいスペックの紹介に終わることが少なくない。開発に関するプレスリリースはそのままニュースとなり(タイトルすら同じものがある)、開発の不備をめぐる指摘は次回のバージョンアップを期待する記事となっていく。しかしここでは、何故ある一つの技術が他の技術とは区別されて採用することになったのかという“選択をめぐる選択”が見えにくくなっている。このように選択の選択が不可視の状態では、メディア・リテラシーも発動のしようがないのが困難なのである(これに対して技術リテラシーの高い人々が反論する→これに対抗するためには「バージョン・アップ」的な語りに内在するしかない→これによって「バージョン・アップ」的な語りの言説空間が強化されていく…)。
 
 では、外野からの内在的異議申し立てとして何ができるのか。上のニュースで言えば、ビデオの「メタデータ」問題が指摘できよう。ビデオからメタデータを抽出するということは、検索を有効にする上で勿論必要である。しかし問題は、完全なメタデータはそれが「メタ」であるがゆえに存在しないということである。
 
 メタデータの抽出機会をWiki的に他者に開いてみても、ビデオにおける発話データをすべてテキスト化しても、また非言語的データをどのようにテキスト化してみても、決定的な「メタデータ」が確定されることはない。むしろこうした試行錯誤は、「メタデータのさらなるメタデータ化」を呼び込むことになる。ゆえにメタデータの有効性を鑑みて、この無限後退はどこかで切断されなくてはならなくなる。
 
 したがって、結局のところは誰がどの時点でどのようにメタデータ無限後退を切断するのかが重要なのである。ユーザーが選択可能な対象は、アーキテクチャのレベルで先行的に選択されざるを得ない。このような“選択の選択”が、情報技術をめぐる動向においていかになされているのかを明らかにしていくことこそ、「バージョン・アップ」的な語りの空間に内在せざるを得ないわたしたちの苦肉の策の一つではないだろうか。
 

 上述のニュースの関係者からの誤解を招かないように言い訳を一つ。私自身も上述の教材を試用させて頂き、NHKアーカイブスの古い映像をそのものとして興味深く楽しみました(感謝)。それを踏まえての私の論点は、教材として選択された一つの映像(またはメタデータ)が、選択されない他の映像(またはメタデータ)といかに区別されるのかという判断を、技術革新の実証のために宙吊りにしてはならないだろうということです。ユーザーにおける選択ではなく、その選択肢を与える技術者自身の選択に対して、再検討可能な回路が確保されていてほしいのです。情報技術のプログラマーは、《内容》を宙吊りにしながら《形式》の部分的最適化を図っていくという意味において、広告のデザイナーと同型の論理を持っており、極めて批判が困難な対象なのです。最初から《内容》の恣意性を認めているがゆえに。

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 土屋アンナの醸し出す過剰さがどうにも好きになれないのだが、木村カエラのロックっぽさは程良くチューニングされていていい。というわけで、写真集を立ち読み。いまさら「サクサク」のDVDを購入し、神奈川のだるーい風景が満載な「海老名のうた」「相模原のうた」「町田のうた」に大爆笑。それから安藤裕子もいい。木曜の深夜には「OH! MY RADIO」(J-WAVE)を、どぞ。

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 はてなのアンテナが、このページの更新を正確に拾えていない(前々からこういう症状はあった)。手動の更新チェッカーを利用してもダメ。長めのエントリーを書いたのになぁ。

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