大学・大学院には何ができないのか

 教育には何ができないのかを明らかにするように、大学・大学院には何ができないのかを明らかにすることも重要である。とりわけ論文を書く立場の者にとって、「問題」をどう設定するのかは、論文の評価そのものに関わってくる。しかしその「問題」の設定こそ、大学・大学院に在籍するだけでは獲得できないのであって、研究仲間としてもどのように声をかけあっていけるのかを悩むところである。

鶴見俊輔:……漱石は、イギリスの近代文学が自分の考えてきた日本や中国の文学と全然違うのはなぜか、という問題を解こうとして大変苦労した。漱石が生きている間は文化人類学が発達してしていないから解けないんだが、彼の問題の立て方はオリジナルで、すごい。そのグリップの強さが生涯続いた……。
上野千鶴子:大学はそういう人を育てられないですよ。そういうシステムじゃないですもの。問題をどう自分の中に立てるかということだけは、だれにも教えられないです。
鶴見俊輔さんと語る 生きる覚悟」『朝日新聞』(2007年2月20日

 大学・大学院は「あなたの問題意識は何ですか?」という問いを引き受け続けることの覚悟しか教えてくれない。そしてこれは「問題」の内容を自分で考えなくてはならないという意味で、終わりのない問いかけである。だからこそ大学・大学院に長期滞在する「研究者」は、どうしようもなく強くなくてはならない。何とも言えない空気が漂う時があるならば、その強さが「問題」の設定よりも先行した時なのだろう。
 
 とにかく「問題意識を持つ」という選択肢は決して楽ではない。また、これが自分探しゲーム(自己と自己内他者の無限ループ)やカリスマ探し(自己による問題設定の放棄)に滑り込んでいくこともある。とはいえ、決定的な解答が存在しない社会の流動性は肯定するしかなく、だからからこそ自分で考え続けなくてはならない。解答ではなく、解答の不可能性しか示さない大学・大学院は暖かいようで冷たい。
 
 したがって、大学・大学院は「ぬるま湯」であると言い切れない。また無根拠であっても結果を残す限り、システムとしては運動を続ける民間市場のほうが、「問題」を発見し続けることが辛い人々にとってはセイフティーネットであると言える。勿論、民間市場に問題意識がないということではないけれども。
 

 論文を用意している時は、どうしようもなく啓蒙的になってしまい、息が荒くなる(反省)。気休めに「バブルへGO!」を観たくて、ホイチョイ・プロダクションズ気まぐれコンセプト クロニクル』(小学館、2007年)を購入して予習。昨日は武蔵野線新秋津駅から西武線秋津駅までを歩き、そのだるーい風景に感動。

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み

教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み

気まぐれコンセプト クロニクル

気まぐれコンセプト クロニクル