*[critique]「空間/作品」を区別するデザイナー

▼デザイナーが作品を語ることの困難
 言うまでもなく、デザイナーにとって「作品集」とは〈何を制作してきたのか〉の記録である。ポスター・コマーシャル・パッケージなどがページ毎にカラフルに配置され、その制作をめぐる裏話が解説的に挿入される。ここで興味深いのは、「作品」が示されていながらも、「作品そのもの」についての語りが回避され、「作品をめぐること」が語り続けられていることである。つまりデザイナーは視覚的には〈何を制作してきたのか〉を示しながらも、言語的には〈いかに制作してきたのか〉を表明してしまうのである。

 こうした奇妙さを直観する人々は、「デザイナーの話はわかりにくい」と言うかもしれない。「作品」と「作者」を目の前にしたギャラリートークなどで、批評家のごとく「なぜこれを制作したのですか」と聞いているにもかかわらず、「これはA社のBチームと組んで、Cという世界を作ろうしたのですが、これが難しかった!そこで人々が忘れかけている原点Dにまで立ち戻り、Eという世界観を大切にした結果、このようなFに焦点を当てた表現となりました」というような返事が戻ってくるからである。

 ここに批評家が期待している意味での「論理」はない。というか、これを期待すること自体が的はずれなのである。なぜならば、そもそもデザイナーは「何か」を演繹的に制作しているのではないからである。その「何か」を選択するのは、常にデザイナーとっての他者である。そしてその選択を選択するのがデザイナーなのである。だからこそデザイナーは自分のこととして「何か」を語ることは困難であり、それに対する言及を試みれば試みる程、「いかに」関わったのかという点が語られていくことになる。このような「選択の選択」とでも呼ぶべき立ち位置こそ、デザイナーに固有する「もう一つの論理」なのだ。したがって批評家が鋭く投げかけたはずの「作品そのもの」への問いは、デザイナーによって見事に流産され続ける運命にある。

▼状況をデザインする
 上述のような「デザイナーが作品を語ることの困難」と直接の関係があるとは言えないものの、近年になって活躍が華々しい佐藤可士和(アートディレクター)が、「状況をデザインする」としばしば語っていることは興味深い。なぜならデザイナーにおける「作品」という単位の限界という点において、先の議論と佐藤は共振しているようにも聞こえるからである。

「編集部:例えばポスターを作ってくださいと言われて、そのポスターを狭い意味でデザインするんじゃなくて、もっと大本のところから考えていく仕事が多いですね。
佐藤:確かにそうですね。でも最近は大本を考えてるというのともまた少し違うのかなって実は思ってる。大本というより「状況をデザインする」ことにすごく興味があるんだと思います。
編集部:状況?
佐藤:ひとつのモノを作ることに終始するのではなく、それがどう置かれているとか、どういう関係になるとか、そういうことを考えていく。チビレモンでも、ちっちゃいボトルが可愛いからそうしたって言うんじゃなくて、背の低いものがコンビニの棚にポコッとあれば目立つじゃないですか。そういう状況として捉えた上でデザインする。
編集部:世の中でそれがどういうふうに置かれて、どういうふうに広まっていくかまで計算した上でのデザイン。
佐藤:全部、状況として考える。僕は現代美術にすごく影響されたから、特にそういう考え方なんだろうけど。そもそも絵画ってあるフレームの中を描いてたわけでしょ。でも現代美術は、その外側というか、絵が置かれてる状況も含めて作品に取り込んでいく」(佐藤可士和「カラッとした空気を世の中に送りたい」『広告批評』マドラ出版、2004年10月)。

 要するに、「モノ」そのものではなく、「モノ」が配置され、そこから生まれていく関係としての「状況」が、デザイナーの制作対象になりつつあるということである。「ちっちゃいボトルが可愛いからそうした」というのではなく、「背の低いものがコンビニの棚にポコッとあれば目立つじゃないですか」ということは、作品を基礎付ける「モノ」という単位への違和感に他ならない。「チビレモン」が人々の目を惹きつけるのは、「モノ」としての自己完結的な効果によってではなく、「モノ」が配置された空間によって初めて生まれる効果によってである。すなわち、このことは差異の生産において決定的な根拠を欠くデザインという活動が、そのバリエーションの暫定的な決定を「物の体系」の外部において行っていることを意味している。こうした事態はボードリヤールが語らなかった「人間が物とかかわるプロセス」においてこそ起こっているのだとも言えよう。

 このことを「デザイナーによる「空間」の発見」と捉えた場合、「モノ」という単位の自律性は失効し、デザイナーにとっての「作品」とは極めて不安定な存在となる。なぜなら「モノ」は「空間」に溶かし込まれ、そこでの「作品」とは暫定的に看取される輪郭(一時停止、もしくはスナップショット)のようなものでしかなくなるからだ。これは何でも「作品」と呼びうると同時に、どこまでが「作品」なのかが決定できない状態であるとも言えよう。

 それでは、これは「作品」の終焉を意味するのであろうか。いや、むしろこれは「作品化への無限連鎖」とも呼びうる事態である。つまり、「モノ」としての「作品」が「空間」から一定の自律性をもって存在するとされていた前提が疑われ、全てが一旦「空間」として再定義された上で、メタレベルから「作品」が抽出されていく過程である。これは、[[[空間/作品]の空間化/作品化]の空間化/作品化]…というようにも図式化できよう。したがって佐藤が語る「状況をデザインする」とは、こうした無限連鎖の一局面を述べていると言える。「作品」という単位はそのコンテクストを横滑りさせながらも、決して無くならないのである。

▼「空間/作品」の区別者としてのデザイナー
 さて、上述のことを踏まえると「デザイナー」とは一体何者なのであろうか。ここで議論を進めやすくするために、「空間」から一定の自律性をもって存在すると前提される「モノ」としての「作品」を「純粋作品」と呼び、それを一旦「空間」として再定義した上でメタレベル的に抽出されていく「作品」を「メタ作品」と呼ぶことにしよう。この「純粋作品/メタ作品」という分類を踏まえれば、これまで「デザイナー」と呼ばれていた人々は「純粋作品」の側に在ると、とりあえずは仮定できる。その理由は、冒頭にのべた「作品集」にある。なぜならそこでは制作物が空間から脱文脈化された状態で、紙面上に個別に配置されているからだ。しかしながら「純粋作品」の「作者」としてデザイナーを捉えようとすればするほど、その試みが失敗してしまうのは冒頭に述べた通りである。「純粋作品」の「作者」であるはずのデザイナーは、視覚的には〈何を制作してきたのか〉を示しながらも、言語的には〈いかに制作してきたのか〉を表明してしまう。したがって「純粋作品」を前提にしている限り、デザイナーは語れそうで語れないである。

 それではデザイナーが「メタ作品」の側にあるとした場合はどうか。「メタ作品」における「作者」とは、「これだけでは作品とは呼べない」と全体を「空間」化した上で、「これならば作品である」と再定義していく者のことである。ここでは「空間/作品」をめぐる区別の再定義が行われているとも言えよう。凡庸に聞こえる部分でもあるが、これは重要な点を含んでいる。つまり、ここでのデザイナーとは「作品」そのものを定義するのではなく、「作品」がそれを取り巻く無限の「空間」といかにして区別されうるのかを定義しているのである。その意味において、「メタ作品」を前提にしたデザイナーとは、「作品」と「空間」の区別を暫定的に挿入する者なのだ。

 こうして見ると、「純粋作品」ではなく、「メタ作品」を前提にした場合こそ、デザイナーをそれとして言語化できることがわかる。「純粋作品」の語り手としてデザイナーを設定することによる失敗は、「作品」と「空間」の区別が自明視されていることに起因するのであり、その失敗を回避するには「メタ作品」の語り手としてデザイナーを設定し、「空間/作品」の関係を再定義する者として捉える必要がある。「空間/作品」の区別が所与となっている場において、デザイナーに居場所は与えられない。「空間/作品」の区別が再定義可能な場こそ、デザイナーの居場所なのだ。したがって冒頭に述べたようなデザイナーが作品を語ることの困難を繰り返さないためには、デザイナーを「作品」の語り手としてではなく、「空間/作品」の区別者として定義したほうがよいと思われる。

 重要なことは、デザイナーに対して無理矢理に〈何を制作してきたのか〉を語らせるのではなく、デザイナーが〈いかに制作してきたのか〉しか表明できない論理を私たちが見極めることなのである。


 上述の文章は、最近装丁した書籍(上野直樹・土橋臣吾『科学技術実践のフィールドワーク』せりか書房、2006年)にヒントを得たもの。私のデザインの出来上がりはともかく、「アクターネットワーク」という議論は、システム論的な記述とも親和性が高くて非常に興味深い。これに従えば、デザイナーを「作品である/ない」の再定義に開かれた「空間」の審判(結節点、ネットワーカー、行司)と捉えることもできるからだ。あえて拙速な言い方をすれば、デザイナーとは「作品」を制作する者では決してなく、ブラックボックス化される「作品」という単位を常に暴きつつ再生産していかなくてはならないある種の息苦しさをアプリオリに抱えた存在なのである。
 
 昨晩の紅白歌合戦でのDJ OZMAにはやられました。ヌードのボディースーツや、下半身にキノコ、そして三宅アナの謝罪にも笑ってしまいましたが、これによって存在意義が問われたのはNHKよりも倖田來未だったと思います。年が明けてからのカウントダウンTVライブで、もう一度やっていたのにも笑いました。みなさん、今年もよろしくどうかお願いします。

科学技術実践のフィールドワーク―ハイブリッドのデザイン (せりかクリティク)

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