「特集:科学技術と民主主義」『思想』2005年5月、岩波書店

 科学技術社会学科学史、科学哲学、科学論…、これらに強く関心をもったのは昨年頃。僕の場合は、専門家と非専門家の関係、知識の制度化と専門的職業の社会化などがメディアの問題を考える上でも非常に参考になる。今号は「良い買い物」でした。

 小林傳司「科学技術とガバナンス」、藤垣裕子「「固い」科学観再考」、杉山滋郎「科学コミュニケーション」は、科学的知の生産と運用を問題にしている点で共通しており、そこで重要とされているのは「発言資格を持つのは誰か」(小林傳司)ということだろう。なかでも「審判」としての科学の役割が肯定されたまま、「体制的科学」と「市民のための科学」という素朴な対立軸だけが温存されていると藤垣裕子の指摘は興味深い。この対立を支えているのが「信頼」であり、それだからこそ「科学的知識の欠如・無知もまた社会的に構成されたもの」(杉山滋郎)としての面が見えにくくなる。他者を信じることによって、自分の無自覚を無意識に肯定してしまうという論理が、科学をめぐる問題に含まれているのだ。だからこそ、「トランス・サイエンス」的状況において「討議に参加する覚悟」や「熟慮する覚悟」といった倫理的姿勢を訴えることになるのだろう(小林傳司)。

 このように信頼と自覚の関係性を問うのが広い意味でのリテラシー朝日新聞の「サブch」(2004年4月29日)には、職業ジャーナリストではない「市民記者」の「信頼性」を問う記事が出ている。しかし、市民記者に「信頼性・信憑性を確保」を問うのは、マスメディアから彼らを見下ろした態度のように思えるところがある。勿論、信頼性は確保されなくてはならない。しかし、科学論が「作動中の科学」を考慮にいれるように、市民記者にも「作動中のジャーナリズム」を求めるようなことはできないのか。つまり、「正確で信頼できるものしか公表してはならない」と諭すのではなく、「公表したものへの責任を受け止め続けてほしい」というように自戒を含めた助言はできないものか。僕は、信頼性の優劣で職業ジャーナリストと市民記者を区別するのには反対である。これでは「審判」としてのメディアの役割を肯定したまま、マスメディアとオルタナティブメディアの対立を温存し続けるだけである。