一段ズラしの啓蒙。

 「●●を使って、分析する」という言い方が、あまり好きではない。ある分析概念を「なんでそこまで信じられるのだろう」と思ったり、ひどい場合には「私も●●学派ですので、どうぞよろしく」的な言明にしか聞こえないからだ。勿論「方法論の無視」は問題だが、「同じ方法論を踏まえてますので、あとは大目に…」というのも、奇妙である。前者はまだ水路付けが可能だが、後者はより面倒なのだ(と、生意気なことは、今のうちに吐き捨てておこう)。
 

フェミニストがしなければならないのは、女性の経験を記述しているこれらの概念の妥当性そのものを疑い、それを産み出す基盤をつくり変えることである。そしてそのことは、これらの概念で女性の経験をかなりの程度までに記述してみた時にはじめて、限界としてあらわになる。…(中略)…。女性の経験を家父長制的資本主義の用語で、できうる限り記述してみるというマルクス主義フェミニズムの努力は、ただそれが廃棄される対象であることを明らかにするためだけにある」(上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店、1990年、pp.288-289)。

「女の経験を男の概念で語りうる限り語り尽くそうと試みたあとで、フェミニストは、はじめて、男のボキャブラリーにない概念にたどりつき、それを再評価する。…(中略)…。「女の経験を男の言葉で語る」ことではなく、「男のやっていることを女の言葉で相対化する」ことができた時に、はじめてマルクス主義フェミニズムの限界は、というより、資本制と家父長制のもとに置かれそのもとで定義された女性の経験は、それから脱してオルターナティヴを見つけることができるであろう」(同書、pp.292-293)。

 「お前だって、この態度に乗っかっているのではないか」と言われてしまえば、それまでだ。にもかかわらず、「一段ズラしの啓蒙にすぎない」ことを自覚した上で、あえて言おう。
 
 日常生活における複雑な経験を、スマートな概念によって(過剰に、そして儀礼的に)飼い慣らそうとする態度は、どうにも面白くない。むしろ問題は、複雑な経験をそうした概念によって縮減し(これはどうしても避けられない)、それらを「そのまま引き継いでしまう」ことである。論文やレポートにできることは、そのような知的な馴致を内在−批判的に問い、新しい認識の地平(読者へのお得感!)を自己反省的に提供していくことではないか。
 
 「ヴァージョン・アップ」が無前提に良いことだと考えられる現在だからこそ、思考や態度の「前提」にまでしっかり遡り、その可能性と中心を不当に無視してしまわない「しぶとさ」が必要である。もし「歴史」を名乗るのなら、それは分析対象だけにでなく、分析方法に対しても同じ態度で望んでもよいはずだろう(歴史の歴史へ)。

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

 
※『他人を見下ろす若者たち』の続編かと思った、下川裕治『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)。「それはちょっと…」という記述も少なくないが、同時代的に、ありえたかもしれない自分の姿が浮かんでくる。大学生という響きが「ギャグ」でしかない若者が、適当に語学を身につけ、コンピュータを使いながら、海外で「浅い」成功を夢見ること(そして、無根拠に海外を転々とすること)。(はやりの)若年労働問題に直結されないロストジェネレーションの姿が、垣間見られた。
日本を降りる若者たち (講談社現代新書)

日本を降りる若者たち (講談社現代新書)