資料の政治学/物語の政治学

oxyfunk2006-11-19

 一週間程、京都・立命館大学にて調査(1920年代後半から1940年代後半までの日記、原稿の草稿、残された蔵書などの閲覧・複写)しておりました。天候に恵まれ、紅葉は始まり、学園祭を控えたキャンパスはとても賑やかで、充実した時間となりました。またコーディネーター、受け入れ機関、先輩など多くの方々からは、大変親切にしてもらいました。おかげさまで想像以上の収穫があり、追加再調査(来年)の目処も立ちました。心よりお礼申し上げます。
 
 さて今回の滞在では、「研究にとって資料とは何か」を何度となく考えることになった。「とにかく一次資料を見て、それに基づく忠実な記述をせよ」と、資料の政治学者的な主張をしたいのではない。「言説分析」なぞを選択する物語の政治学者も、その方法の限界をそれぞれの対象において見極めるべく、可能な限り一次資料は見るべきなのではないだろうか。
 
 最初から前者の立場をとっている場合は、徹底的に資料を読み込んでいくことが重視される。しかし後者の立場を経由して一次資料と向き合う場合は、深読みを誘発する資料そのものへの没入を禁欲しつつ、「いったい、この資料において何が〈言説〉と呼びうるものとなるのか」が問われることになる。適切な言い方ではないかもしれないが、〈言説である/言説ではない〉を区別していくのは研究者そのものであり、資料自体はこの区別を語らない。だとしたら、全体像を描く資料の政治学者とは別の理由で、物語の政治学者は資料の全体像を描かない根拠として、可能な限り一次資料を見るべきなのだ。
 
 資料の全体性を放棄することなく、資料全体は書かない。こう考えてみると、資料の政治学よりも物語の政治学のほうが、時間は明らかにかかり、生産性も低いということになる。言説分析の「切れ味」は、そこに書かれていることだけでなく、そこに書かれていないことに支えられているのだろう。
 
 思い返してみれば、メディア論や文化研究などの発表冒頭で、「これは作家論ではありません」という宣言がお約束のように語られることがある。そしてしばしばテクストの自律性に信憑をおく、記号論的な分析へと滑り込んでいく。確かにこれはこれで面白い研究となっているけれども、みんながみんな「作者の死」を語ることもないように思う。
 
 作者を特権的に扱ってしまいやすいという点で、作家論の限界はある。しかし全ての作者が特権的なのではないし、作者=特権的という考え方自体が歴史の産物である。だとしたら、作者=特権的の回避を「作者の死」とするのではない、作者の記述が目指されてもよいだろう。
 
 今回の調査では日記・原稿の草稿・蔵書などを見たので、他の領域において同様のものを手にした研究者たちが資料の政治学や伝統的な作家論に没入していくのは、ちっともおかしくないことだと強く思った(むしろ、その方が生産的ですらある)。なぜこの方法とは別に、物語の政治学を選択するのか。いかなる全体性のなかで、なおかつどのような意味において、ある対象は〈言説〉として扱われるべきなのか。本当にその必要はあるのか。こうした問いなくして、「資料全体は書かない」は選択できないと強く思ったのでした。

 
 とにかく秋の京都は最高です。「おめん」(http://www.omen.co.jp/)という、河原町にあるうどんやはめちゃめちゃ旨かった。また滞在先の大阪・南方のホテルのラジオで聞いた、BUMP OF CHICKENの新曲「涙のふるさと」は思い出の曲となりそうです。それから、昨晩のドラマ『東京タワー』では何度も泣いてしまったです。田中裕子は名女優ですね。

涙のふるさと

涙のふるさと