デザインの季節か?

oxyfunk2004-11-16

 こういう呼び方もどうかと思うが、どうも「デザインの季節」ではないかと思う。原研哉さんの『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)のサントリー学芸賞受賞はその結果の(契機ではない)一つなのだと思うが、ここのところ一般雑誌での「グラフィック・デザイン」特集が目立つ。ちょっと斜め読みしてみよう。
 『流行通信』(2004年12月号)の特集は「グラフィック×ファッション」。長年続いた明朝体の「流行通信」ロゴがドット絵風に変わった時は「いいかも」と思っていたけれども、これが長持ちするのかどうかは微妙なところ。書籍の装幀をした時に思ったのは、カバーに使う書体や色が時代の匂いとどういった距離感を取るのかということだった。名前を変えずにその形を変更し続けていくのか、それとも名前も形も変更せずにいくのか、雑誌のアイデンティティもタイトル(名前と形)から浮かび上がるものが少ないと思う。ファッションからみた場合、ロゴ作成・商品タグ・紙袋・グリーティングカード・シャツのプリント・カタログ作成などというように、グラフィックはファッションという実践のなかに織り込まれていると言ってもいいだろう。グラフィックをデザインする対象が服なのか、印刷物なのかの違いはあるものの、ファッションデザイナーがアートディレクターを兼任する場合は少なくない。個々の制作はその都度イラストレーターやフォトグラファーなどに依頼しているでという意味で(それは「コラボレーション」と呼ばれることもある)、ファッションデザイナーはアートディレクターと同じように制作の総合性を重視するという点で近接していると考えて無理はないだろう。「グラフィック・ショッピング」という企画は面白い。制限額を設けた上でデザインに焦点を絞った買い物をスーパーマーケットなどでしてみること。単なる嗜好品収集に還元しない方向にすれば、デザインへの距離感を相対化していく面白い実践になると思う。
 『pen』(2004年12月1日号)の特集は「美しいブックデザイン」。この雑誌はこれまでにも「文字のデザイン」や「映画のデザイン」というようにグラフィック特集が少なくない。デザインにも目を配ることができる働き盛りの「男」を鍛え上げようとしている感じ。教養としての「デザイン」というよりは、モテるための「デザイン」かな。デザインを観る目はいろんなきっかけに開かれていてほしいので、僕はそれでも全然いいのだと思う。「本を読む」とはどういうことか。ブックデザインが問うのはココである。「読めない本」や「読み方がわからない本」というように、当たり前としての読書行為が当たり前でなくなる瞬間。メディアアートとしてのブックデザインはこうした瞬間に立ち上がるのだろう。そこで初めて本と私の付き合い方が相対化され、新しい出逢い(本との付き合い方)が生まれる。ヴィジュアル本を絵本や写真集として内容と出逢うのではなく、形式としての装幀そのものとも既に出逢っていることを教えてくれるがブックデザインだろう。その出逢いのモードは「熟読」であっても「パラパラ」であってもかまわない。いわゆる「読みによる解釈」に還元されない本との出逢いが、僕たちにとってどういう意味があるのか。みんながデザイナーになれとは思わないが、その経験の面白さと言語化の難しさはどうしても無視できない。
 『+81』(2004年冬号)の特集は「Typeface+Graphic Design」。この雑誌は1990年代後半に創刊された無数のクリエイター系雑誌の一つなので流通も限られているけれども、『TOKION』と同様に息が長く、これからも応援したい。90年代デザインの面白さは、いわゆるコンピュータ化だけでなく、クリエイターのグローバル(?)な姿勢である。『+81』や『TOKION』が創刊された頃から、インディー系雑誌の英語表記はタイトルから記事にまで及んだ。既存の流通回路に依存しない彼らの活動は、自らが世界各所に移動することで自分達の作品を発表していくことが可能になったのである。そのゆえ、雑誌の二カ国語表記は、一方では日本での流通を、他方では英語が理解される範囲での流通を目論んでいたと考えられる(だから、単なる「おしゃれ」じゃない)。そのために文字が小さくなってしまったのは辛いけれども(行間をとって工夫をしているのは感じられるのですが…)。タイポグラフィは昔でいうレタリングのこと。写植文字が流通するまでは、デザイナーの修業のひとつはレタリングであった。それが今でいうフォントとして標準化されるのであるが、それに飽き足らないのがデザイナー。ライターで文字の一部分を燃やしてみたり、クシャクシャにしたりというようにマテリアルな形でタイポグラフィを試みたりする一方で、そうしたマテリアルな変形を受けた書体すらフォントとして標準化することが可能になったのが1990年代後半のフォントブーム。先のブックデザインと同じように、当たり前とのしての文字が「文字」でなくなってしまうというメディア論的思考の揺さぶりをかけてくるのがタイポグラフィなのだろう。「editor's note」にあるように、デザインがどこでも発見されて、その「機能差別化が困難」な現在において、だからこそデザインを個人の能力に回収しない対話的な「アートディレクターやデザイナーの存在価値はますます高くなる」という点は重要だと思う。
 肝心な広告制作者の戦後史には苦労苦労苦労。戦後のほとんどが戦時下に用意されていたことが分かりつつあるこの頃、広告が「報道」だった時代の制作者の思考がとても重要になってきましたです。
 
※参考
・『流行通信
http://www.infaspub.co.jp/ryuko-tsushin/rt.html
・『pen』
http://www.hankyu-com.co.jp/pen/
・『+81』
http://www.plus81.com/